人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --東慶寺と夏目漱石『初秋の一日』ーー

2020-02-20 21:23:05 | 日記

東慶寺の山門の階段下に夏目漱石の「参禅100年記念碑」があります。その記念碑には『初秋の一日』の抜き書きが載せられ、漱石ファンなら一度は読んだことのある文章です。漱石が中村是公と大塚信太郎の二人の友人とともに東慶寺の住職である釈宗演を訪ね、15年前の参禅の記憶を懐かしむ様子が漱石らしく書かれています。

その『初秋の一日』には記念碑に載せられていないところもあり、その部分も大変興味深いので、ちょっと紹介させていただきます。漱石が東慶寺を訪ねたのは明治45年9月11日。あいにくの雨の一日。その雨も身にまとわりつくような糠雨。鎌倉駅から人力車で護謨合羽を用意して東慶寺に行きました。文中に「彼らはその日の侘しさから推して、二日後に来る暗い夜の景色を想像したのである」とあります。二日後は9月13日ですが、何の日か想像ができません。最後に「御大葬と乃木将軍の記事で、都下で発行するあらゆる新聞の紙面が埋まったのは、それから一日おいて次の朝の出来事である」と。ここではじめて明治天皇の大喪の礼が9月13日に執り行われたのがわかりました。

そして夏目漱石の肖像写真で良く使われるが腕に喪章を付け、悲しげな表情で椅子に寄りかかっている写真です。この写真の撮影日は1912年9月13日とウイキペディアにありました。漱石が45歳の時の肖像写真です。漱石が生まれたのは慶応三年2月9日ですから、まさに漱石は明治とともにこれまで生きてきたことになります。写真の表情は「悲しげ」というよりも、「感慨深い」思いに浸っている表情かもしれません。

『初秋の一日』の短い文章の一つでこれだけ妄想が広がるとは。漱石恐るべしです。

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鎌倉を知る --円覚寺と夏目漱石『門』ーー

2020-02-20 17:19:42 | 日記

梅の香に誘われて、夏目漱石の『門』を片手に北鎌倉の円覚寺と帰源院そして東慶寺を訪ねてみました。以前は夏目漱石の参禅体験の様子が知りたくて、その個所の拾い読みだったのですが、今回は最初から通して読み、漱石の生涯のなかで『門』がどの時期に書かれたかも調べました。ただ三部作と言われている『三四郎』と『それから』は残念ながら未読です。

ストーリーは友人の妻を奪って駆け落ちし、その負い目から大学を中退、身を隠すように勤務地を変えて暮らす夫と妻。そして偶然に耳にした裏切った友人の消息と突然のニアミスに心を乱し、禅門に救いを求める主人公の心の葛藤を描いた小説です。夏目漱石は明治40年に朝日新聞社に入社し、明治41年に『三四郎』、明治42年に『それから』。そして明治43年に『門』の連載をはじめました。連載小説となれば読者受けするものが求められたのでしょうが、夏目漱石はこういった男女間の不義不貞を描いたものは不得手だったと思われます。相当のストレスだったのでしょうか、『門』連載後に胃潰瘍で入院し、修善寺で命にかかわる大量吐血をしました。

『門』では、”一”からはじまり、”一七”で裏切った友人と再会するかもしれないとの恐怖心に襲われ、「彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した」そして「宗教と関聯して宗助は坐禅という記憶を呼び起こした」とあります。ここで唐突に坐禅の二字が出てきます。連載の読者は宗助と安井との再会、お米の心の乱れを期待したと思いますが、夏目漱石は強引な幕引きをはかりました。”一八”から”二二”にかけての円覚寺での参禅の様子はちょっと難しい。この部分を書くことが夏目漱石の良心だったかもしれません。

終章”二三”では、お米が「本当に難有いわね。漸くの事春になって」と話し、それに宗助は「うん、然し又じきに冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。・・で終わります。

写真は明治28年12月に坐禅のため10日間ほど逗留した帰源院の山門です。

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