泉鏡花の作品に『春昼・春昼後刻』という短編小説があります。『草迷宮』に比べずっと読み易く、久しぶりに一気読みをしてしまいました。泉鏡花のWikipediaに中島敦のエッセイ『泉鏡花氏の文章』が紹介されていました。その一文が印象的です。「私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生まれながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ」と・・・。では泉鏡花の文章はどんなものか、『春昼後刻』から抜き書きしましょう。
この春の日の日中(ひなか)の心持を申しますのは、夢をお話しするようで、なんとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして寂しいことは。やっぱり、夢に賑やかな処をみるようではござんすまいか。(一部略) あの貴下、叱られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ寂しさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。(一部略)
泉鏡花は出版する小説にはすべてルビをふっていました。それほど言葉の響き、文章の流れを大切にしたんでしょうね。小説を読むときは、目で文章を追い、頭のなかで言葉のつながりを反芻します。よい文章はストンと心に落ちます。中島敦の言わんとすることがわかるような気がします。
『春昼・春昼後刻』は散策子が逗子のお寺(岩殿寺)を散歩途中にふらりと訪ね、そこで見つけた一枚の懐紙の切れ端に書かれた歌から物語が展開していきます。
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき ーー玉脇みをーー
さて物語がどのように展開するか。知りたい方は岩波文庫を買って一度読んでください。137ページの文庫本でほぼワンコインで求められます。
写真は逗子の岩殿寺です。坂東三十三所観音巡礼第二番の由緒あるお寺です。