人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --日本武尊の「東征の道」を偲ぶーー

2020-02-02 13:28:03 | 日記

日本武尊(ヤマトタケル)という伝説上の人物が『古事記』『日本書紀』の中で描かれています。景行天皇(在位71年~130年)の息子で怪力と気性の荒さを父である景行天皇に恐れられていました。そして記紀を読み比べるとこの日本武尊の書き方が違っています。『日本書紀』では九州平定は景行天皇自らが出陣していますが、『古事記』では当時オウスと呼ばれていたヤマトタケルが南九州を支配していたクマソタケルを滅ぼし、そのクマソタケルからヤマトタケルの名を献上されたとあります。この記紀の違いについての理由はよく分かりません。

そして本題の東国遠征ですが、この部分の記紀の記述はほぼ同じです。静岡県の焼津で賊の罠にかかり焼き殺されそうになったこと。三浦半島の走水(横須賀市)で海神の起こした暴風を鎮めるために、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に身を沈め犠牲になったことなどが、同様に具体的に書かれています。『日本書紀』には弟橘姫は穂積氏忍山宿禰の女と紹介されていますが、この穂積氏の系図をたどると、天照大神につながる饒速日命の後裔で、子孫には飛鳥時代に東国の国史となった人物や持統天皇の時代には、先祖の墓記を上進するように命じられた18氏にも含まれています。これが『日本書紀』の元になったとされています。古代史において蝦夷が支配する東国平定は重要課題であり、その一環として走水から浦賀水道を渡り東国に至る街道の整備がなされたと思われます。『日本書紀』の編纂者は走水での弟橘姫の活躍を後世に残したかったのでしょう。その目的は?・・・ですね。

写真は逗子市にある大崎公園から葉山方面を望んだもので、古東海道といわれる日本武尊東征の道は正面の海岸沿いを歩き、三浦半島を横断し走水に行きました。左に見える逗子の町並みは、当時は今のJR逗子駅あたりまで海であり、披露山を下ってからは大きく迂回して目の前の海岸に至ったと思われます。大崎公園の展望台に立つと、海を隔てた古東海道を歩む軍馬の隊列が目に浮かぶようです。

 

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