人生悠遊

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鎌倉を知る --畠山重忠と三浦氏の戦い--

2022-07-24 15:12:39 | 日記

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月24日の条に畠山重忠と三浦氏の戦いの様子が書かれています。一日前は源頼朝の旗揚げの石橋山の合戦の日。24日は頼朝が大庭景親ら平家方の大軍に散々に打ち負かされ、椙山に逃げ隠れていたころです。石橋山の合戦の顛末は『吾妻鏡』に詳細に記述されていますので、多くは書きませんが、畠山重忠と三浦氏の戦いの個所だけ抜き出して紹介します。

8月24日。三浦の輩、城を出でて、丸子河の辺に来り、去夜より暁天を相待ちて、参向せんと欲するのところ、合戦すでに敗北するの間、盧外に馳せかえる。その路次に由井の浦において、畠山次郎重忠と数刻挑み戦ひ、多々良三郎重春ならびに郎従石井五郎等、命を落す。また重忠が郎従五十余輩梟首せらるるの間、重忠退去す。義澄以下また三浦に帰る。  

8月26日。武蔵国の畠山次郎重忠、かつは平氏の重恩を報ぜんがため、かつは由井の浦の会稽を雪がんがために、三浦の輩を襲わんと欲す。よつて当国の党同を相具して来会すべきの由、河越太郎重頼に触れ遣わす。・・・。江戸太郎重長、同じくこれに與す。今日卯の刻、この事三浦に風聞するの間、一族ことごとくもつて衣笠城に引き籠り、おのおの陣を張る。・・・。辰の刻に及びて、河越太郎重頼・中山次郎重実・江戸太郎重長・金子・村山の輩巳下数千騎攻め来る。・・・義澄ら相戦ふといへども、・・・。城を捨てて逃れ去る。義明を相具せんと欲する。・・・。われひとり城郭に残留し、多軍の勢に模して、重頼にみせしめんと云々。翌27日。義明(89歳)。討ち取らる。

この由井の浦の戦いは、『源平盛衰記』では畠山重忠は稲瀬川辺り、三浦軍は小坪峠に陣を張り、一戦を交えた様子が書かれています。また人物叢書『畠山重忠』の貫 達人氏は、敗走する三浦勢を追って重忠は小坪を越え、逗子に出、鐙摺から葉山に入り、木古庭を通って行ったと書いています。

畠山重忠はのちに源頼朝の配下となり、活躍するのですが、以上の戦いの顛末を見る限り、三浦一族は義明を失った恨みを片ときも忘れなかったと推察されます。写真は由井の浦の現在の様子。偶然にも赤旗と白旗が立っています。写真の奥の中央付近が小坪の峠。その峠を越えて逗子、葉山に向い、衣笠城に攻めこんだと思われます。

 

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