人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --畠山重保の墓--

2022-07-29 11:14:23 | 日記

若宮大路の一の鳥居の側に畠山重保邸の跡と書かれた石碑と高さ3.4mほどの宝篋印塔があります。畠山重保は畠山重忠の嫡男。なぜこの場所にあるのか?このような浜に近い所に畠山重保邸があったとは考えにくいのですが・・・?少し歴史書にあたってみました。『新編鎌倉志』◎畠山重石塔には次のように書かれています。

畠山重保石塔は、由比浜にある五輪を云う。明徳第四、癸酉霜月日、大願主道友と切付てあり、年号重保より遥後なり。按ずるに『東鑑』に、元久二年(1205)六月二二日、軍兵由比浜に競走で、謀反の輩畠山重保を誅すとあり。或いは後人重保が為に建てたるか。萬里居士『無尽蔵』に、寿福寺に入て、人丸塚を山頂より望、六郎が五輪を路傍に指すとあり。又この石塔の西方を畠山屋敷と云う。是も重保が旧宅ならん。或いは畠山重忠石塔と指示し、又重忠が屋敷なりと云伝。恐らくは非ならん。重忠が屋敷は筋替橋の西北にあり。重忠は、重保と同日に、武蔵国二俣川にて誅せられるとあり。父子なり。

『新編鎌倉志』では重保の五輪塔の西方に畠山屋敷があったことを否定し、屋敷は筋替橋の西北だと言っています。また『吾妻鏡』元久二年(1205)6月21日から6月23日の条には、畠山重保・重忠の父子が誅殺された顛末をかなり詳細に記述しています。だいたい『吾妻鏡』にある長い文章は、何が正しいのかしっかり見極めながら読まないといけませんが、石碑にあるような重保邸を囲んで襲うという状況でなく、由比浜に謀反人が出没した知らせを受けた畠山重保が駆けつけたところに、北条時政の命を受けた三浦義村らが襲いかかり、誅殺したかと思われます。いわばだまし討ちでしょか?重保を討った三浦義村にとっては積年の恨みを果す大義目分ができ、勇んで駆けつけたことでしょう。

さてここでよく分からないのが、大軍を率い畠山重忠を討った北条義時・時房の真意です。あとで謀反の意思のない重忠を討ったのは間違いであったといい訳していますが、それであれば戦わず帰還すればよい訳で、畠山一族を滅ぼす必要はなかったと思われますが、果たしてどうでしょうか?

 

 

 

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