人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --畠山重忠 銅拍子をなす--

2022-07-26 09:05:08 | 日記

畠山重忠シリーズの第3弾。タイトルは「畠山重忠 銅拍子をなす」です。これでは何のことか分かりませんので、もう少し詳しく解説します。『吾妻鏡』文治2年(1186)4月8日の条は、「二品(源頼朝)並びに御台所(北条政子)、鶴岡宮に御参。次をもつて静女(静御前)を回廊に召し出さる。これ舞曲を施さしむべきによてなり。」ではじまります。皆さんご存じ「静の舞」の話です。私はガイドする時には「静御前鎌倉鶴ケ岡二法楽ノ図」(江戸時代 神奈川県立博物館蔵)で説明します。この応斎年方が画いた屏風絵は忠実に『吾妻鏡』のこの場面を再現しています。因みに「法楽」とは、『広辞苑』によりますと、法会の終りに、詩歌を踊しまたは楽などを奏して本尊に供養することとあります。

源義経の愛妾である静御前はこの申し出を病気である云い、はなはだ恥辱であると固辞します。ただ御台所政子は次のように思い、舞を切望します。

彼(静御前)はすでに天下の名仁(人)なり。たまたま参向して、帰路近きにあり。その舞を見ざるは無念の由、御台所しきりにもって申さしめたまふの間、これを召さる。ひとへに大菩薩の冥感に備ふべきの旨仰せらるると云々。・・・。しかれども貴命再三に及ぶの間、なまじひに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。左衛門尉(工藤)祐経鼓つ。・・・。畠山次郎重忠銅拍子をなす。静まづ歌を吟じ出して云はく、 --よし野山みねのしら雪ふみ分けており都はいりにし人のあとぞこひしき--  次に別物の曲を歌ふの後、また和歌を吟じて云く、 --しつやしつしつのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな-- ・・・。

このあとのことは皆さんご存じの通りです。源頼朝はこれは関東の万歳を祝う歌ではないと奇怪なりと怒り、それを政子がなだめるという顛末です。

さて本題に戻りましょう。冒頭の屏風絵にも畠山重忠が銅拍子をなす凛々しい姿が描かれています。別の個所では、この重忠が今様を歌い、頼朝を唸らせるシーンが出てきます。この銅拍子にしても、今様にしても、誰でも出来るわけはなく、子供ころから芸事をしっかり学んでいたからと思います。ほかの坂東武者では真似できないことで、頼朝に重宝がられた理由かもしれません。

写真は現在の舞殿の様子。上宮が出来たのは建久2年(1191)の大火後ですから、静が舞ったのは当時の若宮の回廊だったと思います。

 

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