人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --畠山重忠屋敷の所在は?--

2022-07-28 08:51:02 | 日記

『新編鎌倉志』巻之一「筋替橋」(14P)にはこう記されています。

筋替橋は、雪下より、大倉山へ出る道の橋なり。鎌倉十橋と云うは、琵琶橋・筋替橋・歌橋・勝橋・裁許橋・針磨橋・夷堂橋・逆川橋・乱橋・十王堂橋なり。筋替橋西北を、畠山重忠屋敷跡と云う。『東鑑』に、正治元年五月七日、医師時長、昨日京都より参着す。今日掃部頭が亀谷の家より、畠山次郎重忠が、南御門の宅に移住す。是近々に候ぜしめ、姫君の御病脳を療治し奉らんが為なりとあり。

『吾妻鏡』では建久十年(1199)のままになっていますが、4月27日に正治元年に改元されていますので、『新編鎌倉志』の記述の方が正しいようです。この5月7日の様子を『吾妻鏡』にそって詳しくみていきましょう。

雨降る。医師時長(丹波)、昨日京都より参着す。左近(大友)将監能直これを相具す。伊勢路を廻りて参向すと云々。旅館以下の事は、兵庫頭(大江広元)ならびに八田右衛門尉友家等、沙汰を致すべきの由。御旨を含むものなり。今日時長、掃部頭(中原親能)が亀谷の家より、畠山次郎重忠が南御門の宅に移り住む。これ近々に候ぜしめ、姫君の御病脳を療治したてまつらんがためなり。この事度々辞し申すと云へとども、去月早く 関東に参向すべき旨、院宣を下さるるの間、かくのごとしと云々。

ここでいう姫君は頼朝の娘乙姫のことです。重病となり政子は治療のために当代随一の御殿医である丹波時長を下向させ、亀谷の中原親能の屋敷を宿舎としますが、大蔵御所から遠すぎるということで、南御門側の畠山重忠屋敷に移住させるという話です。政子ほかの懸命の介抱にもかかわらず、乙姫(享年14歳)は6月30日に亡くなりました。

鶴岡八幡宮の東の鳥居の側に畠山重忠屋敷跡の石碑がありますが、今回深谷市から来訪者をガイドするまでは深く調べることはありませんでした。郷土愛の強い皆さんはこの石碑の前で記念撮影をされていました。畠山重忠がこれほどまで大蔵御所や鶴岡八幡宮の近くに屋敷を構えていたことに感激されていたようです。源頼朝は最初はともかく勉年は畠山重忠を深く信頼していたと思われます。

 

 

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