真名本『曽我物語』巻六(十郎、虎と名残を惜しむ)場面とあとの(五郎、勘当の許しを願う)の場面等は、仇討以上に感動的で、情感あふれるタッチで描写され、この曽我物語のクライマックスシーンと言っても過言ではないでしょう。少しその箇所を紹介します。
★ころは建久四年癸丑五月下旬の事なれば、五月雨の天の物憂き今朝の空しも、五月雨茂く雨蓮(ふりつづ)いて心の暗晴れやらず。裾は露、袖は涙にしおれつつ、「由なかりける契かな。結びもはてぬ物故に、ただかりそめの契して、永き歎きとなるぞ憂き。冥途へゆく中有の旅もかくやらむ」と覚えつつ、馬に任せて行く程に、曽我と中村との境なる山彦山の手向(六本松峠)に付きにける。ここに引へて十郎語りけるは、「今少し送り奉るべけれども、今朝は疾く立たんと云いしに、五郎も定めて今は来ぬらむ。また互ひの名残の悲しさは、我も人も同じ事なるべし」とて、暇(いとま)乞ひて返りけり。・・・。されども尽きぬ悲しみは、心強くも打ちよけて、十郎引き返しければ、余りに悲しく覚えて、虎は手を挙げてぞ招きける。・・・。★
訪ねた「忍石」はまさにこの十郎・虎の別れの場所に置かれた石だと案内板にありました。確かに六本松峠から中村の里にむかって300m程先なので、曽我物語の記述にある「今少し送り奉るべけれども」に合致しています。ただ石の名前がなぜ「忍石」なのかはよく分かっておらず、万葉集にでてくる松浦佐用姫(新羅へ出征してゆく夫と別れる悲ししさのあまり石になったという物語)の話から取ったのではないかとか推測しています。たぶんこの六本松峠を越える旅人の興味をそそるために曽我の里のひとが置いたものでしょう。
私は道を間違えて忍石を過ぎ中井町の方に誘われるように歩いてしましましたが、そこには悠然と構える大山の姿がありました。この道は大山道ともいうらしく、曽我十郎・大磯の虎御前は人目を避けるために国府津からの道を通らず、大磯、中村(中井町)から曽我の里を行き来したようです。
昨年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で曽我物語に興味を持ち、坂井孝一先生の本とか、『城前寺本 曽我兄弟物語』を読み漁ってきました。今回の旅も曽我祐信の宝篋印塔を訪ねることが目的でしたが、それだけなら下曽我の城前寺から登ってくれば済む話で、わざわざこの丘陵ハイキングコースを歩く必要はなかったかもしれません。しかし歩いてみてはじめて六本松峠とか忍石のことを知ることができた訳で、なにか不思議な感じがしました。まさに本日3回目のラッキーですね。