熊野本宮大社のホームページによれば、御祭神は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神々です。ここ熊野本宮大社の主祭神は、家都美御子大神(けつみこのおおかみ)で、昔は熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)と呼ばれていました。十二柱の神々は、上四社(第一殿~第四殿)がいまの熊野本宮大社にあり、中四社と下四社のご祭神は旧社地大斎原に合祀されており、ここでの説明は省略させていただきます。
上四社の第一殿は、西御前といい、熊野牟須美大神、事解之男神(千手観音)。第二殿は、中御前といい、速玉之男神(薬師如来)。第三殿は、證誠殿といい、家都御子大神(阿弥陀如来)。第四殿は、若宮で天照大神(十一面観音)。第一殿と第二殿は、御前となっていますが、熊野三山の熊野速玉大社と熊野那智大社の神様です。( )内の仏様は、熊野三山の神様の本地仏であり、奈良時代の頃から仏教を取り入れ、平安時代以後は「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下の三社からなるため、熊野三社権現と呼ばれ、また十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも呼ばれています。往時の人々は目に見えない神様に拝礼することに加え、仏教の教えと習合した阿弥陀如来とか、薬師如来、千手観音を権現様のかたちにして礼拝した方が、身近に御利益を感じたのではないかと思われます。第三殿の證誠殿ですが、これは前回のブログで書きましたが、旧社地大斎原に降りて来たまん中の月が「我は證誠大権現」と答えたことからと伝っています。證誠の意味は辞書を引いても出てこないのでよく分かりません。
『熊野古道』(小山請憲著 岩波新書)によれば、熊野は浄土信仰の地であるとしています。平安時代末期の12世紀になると、熊野では神仏が習合しました。既に記した通り、本宮には阿弥陀如来、那智の結神には千手観音、速玉神には薬師如来があてられました。このことから、本宮は阿弥陀仏の西方浄土、那智は観音の補陀落浄土、新宮は薬師の東方瑠璃浄土とされ、熊野全体が浄土の地と認識されるようになったと書かれています。当時の上皇や貴族らがこぞってこの浄土の地をもとめ参詣したのは、現世利益を求めたからかと思われます。
このように現世利益を求めた参詣であったことは間違いないでしょうが、筆者はさらに参詣人を惹きつけた何かがあったと考えています。それは難行苦行の末にたどり着いた先の見るものを圧倒する景色(舞台)ではないかと思います。これは次回の大斎原のところで紹介します。