人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

熊野詣 PART8② --熊野本宮大社 御祭神・本地仏--

2024-06-10 16:53:23 | 旅行

熊野本宮大社のホームページによれば、御祭神は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神々です。ここ熊野本宮大社の主祭神は、家都美御子大神(けつみこのおおかみ)で、昔は熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)と呼ばれていました。十二柱の神々は、上四社(第一殿~第四殿)がいまの熊野本宮大社にあり、中四社と下四社のご祭神は旧社地大斎原に合祀されており、ここでの説明は省略させていただきます。

上四社の第一殿は、西御前といい、熊野牟須美大神、事解之男神(千手観音)。第二殿は、中御前といい、速玉之男神(薬師如来)。第三殿は、證誠殿といい、家都御子大神(阿弥陀如来)。第四殿は、若宮で天照大神(十一面観音)。第一殿と第二殿は、御前となっていますが、熊野三山の熊野速玉大社と熊野那智大社の神様です。( )内の仏様は、熊野三山の神様の本地仏であり、奈良時代の頃から仏教を取り入れ、平安時代以後は「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下の三社からなるため、熊野三社権現と呼ばれ、また十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも呼ばれています。往時の人々は目に見えない神様に拝礼することに加え、仏教の教えと習合した阿弥陀如来とか、薬師如来、千手観音を権現様のかたちにして礼拝した方が、身近に御利益を感じたのではないかと思われます。第三殿の證誠殿ですが、これは前回のブログで書きましたが、旧社地大斎原に降りて来たまん中の月が「我は證誠大権現」と答えたことからと伝っています。證誠の意味は辞書を引いても出てこないのでよく分かりません。

『熊野古道』(小山請憲著 岩波新書)によれば、熊野は浄土信仰の地であるとしています。平安時代末期の12世紀になると、熊野では神仏が習合しました。既に記した通り、本宮には阿弥陀如来、那智の結神には千手観音、速玉神には薬師如来があてられました。このことから、本宮は阿弥陀仏の西方浄土、那智は観音の補陀落浄土、新宮は薬師の東方瑠璃浄土とされ、熊野全体が浄土の地と認識されるようになったと書かれています。当時の上皇や貴族らがこぞってこの浄土の地をもとめ参詣したのは、現世利益を求めたからかと思われます。

このように現世利益を求めた参詣であったことは間違いないでしょうが、筆者はさらに参詣人を惹きつけた何かがあったと考えています。それは難行苦行の末にたどり着いた先の見るものを圧倒する景色(舞台)ではないかと思います。これは次回の大斎原のところで紹介します。

 

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熊野詣 PART8① ーー熊野本宮大社 縁起・神話――

2024-06-10 08:15:42 | 旅行

中辺路を歩いてきて祓殿王子を過ぎれば5分ほどで現代の熊野本宮大社に到着しました。大斎原より40m位高い場所にあります。現代のと書きましたのは、明治22年の大水害以前の熊野本宮大社はこの場所になく熊野川の中州、大斎原(おおゆのはら)にありました。筆者がこの熊野詣に来たかったのは、平安時代から現代まで何ゆえに熊野三山が信仰の対象として崇められたのか?その理由を知りたかったからです。上皇ですら遠く京都から深い山の中を歩き、本宮、新宮、那智の順に熊野三山を参詣しました。天仁二年(1109)に参詣した藤原宗忠は、「難行苦行、在るがごとく亡きがごとし。誠にこれ生死の嶮路を渉り、菩提の彼岸に至るものか」と書き記しており、馬などに乗っては御利益がないと考えていたようです。これはまさに修験道の世界を自ら体感し、大願成就を祈願したと思われます。

まず熊野本宮大社のホームページ、『神話のおへそ』(神社検定公式テキスト)、『熊野古道』(小山靖憲著・岩波新書)を参照して、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建された経緯を、その縁起・神話でみてみましょう。

天火明命(あめのほあかりのみこと、天照大御神から三代目、番能邇邇芸命の兄弟)は、古代、熊野地を治めた熊野国造家の祖神で、その息子である高倉下は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂」(奈良石上神社蔵)を献じて迎えた。時を併せて高御産巣日神(たかみむすひのかみ、別天つ神五柱=万物の生産の神)は天より八咫烏を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導いた。 第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟の巨木に、三体の月が降臨した。天火明命の孫にあたる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてきたのか」と尋ねた。するとまん中の月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って斎(ゆ)き祀れ」と答えた。※斎は「ゆ」と読み、天照大御神が邇邇芸命に「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」を下したと記されている。

以上の縁起・神話をみれば、初代神武天皇のゆかりの地であれば、平安時代歴代の上皇がこぞって参詣した理由の一つだと理解できます。しかながら後白河上皇34回(1年に1回)、後鳥羽上皇28回(10カ月に1回)という参詣頻度の多さは説明できません。これは次回の祭神と本地仏で探ってみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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