熊野古道 中辺路の道を歩き熊野本宮大社の入口に祓殿王子跡があります。案内板の説明を写してきましたのでご覧ください。
前世と現世に心身に積もった汚れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇らせることを目的とする熊野参詣では、禊ぎや祓いが重視された。 中でもこの王子での祓いは、熊野本宮参詣前に行なうもので、これまでの道中の祓いにもまして重要であった。 天仁二年(1109)に貴族・藤原宗忠(1062~1141)は、水呑王子に参詣したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って、翌日の参詣に備えた。 また、およそ百年後の建仁元年(1201)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉した貴族・藤原定家(1162~1241)は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった。
今現在では、熊野本宮大社は明治時代の洪水で流され、この祓殿王子跡の直ぐ側にありますので、本宮大社に参詣する前の祓いとか禊ぎといったことのイメージがわきません。明治時代以前は、熊野川の中州にある大斎原(おおゆのはら)に熊野本宮大社がありましたので、中辺路の道を下ってきて、俗世の垢を落すためにこの祓殿王子で身を清めてから、少し離れた場所にある熊野本宮大社に参詣しました。京都から10日以上もかけてやって来た参拝者には、相応の舞台装置が必要で熊野川の清流と熊野本宮大社の大鳥居のある風景はインパクトがあったと思われます。実際江戸時代までは洪水で熊野本宮大社が流されても、その都度建て替えられました。復活のシンボルとして大斎原にあることが必要だったと思われます。
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