人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

熊野詣 PART9③ ーー番外編 本州最南端 潮岬--

2024-06-16 13:05:18 | 旅行

熊野三山参詣ツアーも、熊野本宮大社と熊野速玉大社の参拝を済ますことができました。2日目の夕食は串本町でいただくことになっています。幼いころの記憶で、串本といえば串本節です。「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡行船・・・。」大事なことは忘れても妙なことはしっかりと記憶に残っているものですね。生きているうちに串本節の地元を訪れることができました。今は巡行船はなく、大島へは立派な橋が架かっています。また途中、スペースワンの打上げ射場の近くを通りました。最近小型ロケットの打上に失敗したニュースが流れたばかりで串本の名前を記憶していました。さらに串本港の近くには近大マグロで有名な近畿大学のクロマグロの養殖場もあります。串本町は紀伊半島の南端の町ですが、宇宙開発と水産業の最先端の場所であったとは驚きです。

さて夕食場所は潮岬観光タワーですが、この場所は本州最南端の地であります。食事場所から歩いてすぐのところです。因みに本州最東端は岩手県宮古市の近くのトドが埼、最南端がここ潮岬、最西端が山口県下関市毘沙の鼻、最北端は青森県大間崎です。これまで日本全国を旅行していますが、最〇端の地を踏むのは初めてです。一日目の道成寺に続き、二日目は本州最南端の潮岬と、さりげなく気を使っているツアーだと感心しました。

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熊野詣 PART9② --熊野御幸ーー

2024-06-16 08:31:24 | 旅行

熊野速玉大社の境内の中に、巻頭写真に載せましたが「熊野御幸」の立派な屏風仕立ての石碑がありました。また熊野御幸(くまのごこう)を説明した案内板が設置されていましたので、これも書き写してきました。

中世、宇多上皇(第五十九代天皇)の延喜七年(907)から玄輝門院の嘉元元年(1303)までの三百九十六年間に上皇、女院、親王を合せて御二十三方、百四十回に及ぶ皇室の御参詣があり、これを熊野御幸と言って熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。 熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後に御出発になる。白河天皇の天永元年九月の御幸には、総人数八百十四人、一日の食料十六石二斗八升、傳馬百八十匹と「中右記」に記している。 御幸の道順は、京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸沿いに南下して田辺、中辺路、本宮、熊野川を下って当大社へ参拝、那智山、雲取、本宮、往路コースを逆行して帰京されるまで、およそ二十数日に及ぶ難行苦行のたびであった。熊野御幸によって熊野信仰は公卿、武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられるなど、各方面に大きな影響を残している。

この案内板の文章は、非常にコンパクトに熊野御幸の内容がまとめられており、当時の様子がよくわかりました。総人数約816人が約20数日間に及び熊野御幸に出向くとなると、いったいいくらの費用がかかったのか?沿道の庶民はその支援のために労役を提供しましたが、その負担は大きかったと想像されます。後鳥羽上皇などは生涯で10カ月おきに28回とも29回ともいわれる熊野御幸に出向いています。その費用を誰が負担したのか?その目的は何だったのか?

『吾妻鏡』には残っていませんが、現地の人の話では、北条政子も2回熊野詣に来ているとのこと。もしそうだとすれば、まだ源頼朝が生きていた頃の話です。熊野本宮大社の大斎原に置かれ、今は宝物館にある湯釜、熊野速玉大社の神倉神社の538段の階段は源頼朝が寄進したものと伝わっていますが、史実かもしれません。そしてもし北条政子の熊野詣が本当だとすれば、実際に熊野詣をしてみた北条政子の眼に熊野御幸がどう映ったか?源実朝死後の政治判断にどう影響したか?妄想は膨らむばかりです。

 

 

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