人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

熊野詣 PART8④ --八咫烏--

2024-06-12 16:20:33 | 旅行

八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークになっている鳥でその由来(案内板の説明)は次の通りです。

熊野では八咫烏を神の使者と言われています。三本足とは熊野三党(宇井、鈴木、榎本)を表わすとも言われ、当社では主祭神家津美御子大神(素戔嗚尊)の御神徳である智・仁・勇、また天・地・人の意をあらわしています。 烏は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇御東征の折、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。・・・。

前掲の神社検定テキスト『神社のおへそ』によれば、この話は『古事記』に出てくる話であり、伊波礼毘古命(いわれびこのみこと・神武天皇)の東征で熊野の地に入ったとき、天照大御神が道案内のために遣わされた鳥がこの八咫烏です。

巻頭の写真は、熊野本宮大社の社殿前に設置してある八咫ポスト。先ほどの説明文にあったように、八咫烏が遠隔地へ送る使者の役割を担うという意で設置されたものでしょう。さらにその奥にある太い幹の木の名はタラヨウといいます。このタラヨウの葉の裏に尖ったもので字を書くとボールペンで書いたように字が残り、ハガキの語源になった木といわれています。インターネットで調べますと、タラヨウの葉の裏に字を書いて切手を貼ってポストに入れれば、ちゃんと宛先に届いたそうです。

この八咫ポストやタラヨウのことも熊野の語り部の方の説明で知り得たことです。案内人なしでは味気ない旅になっていたかもしれません。『徒然草』(第五十二段)に「すこしの事にも、先達はあらまほしきことなり」とありますが、実感しました。

 

 

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熊野詣 PART8③ --旧社地 大斎原(おおゆのはら)--

2024-06-12 12:08:14 | 旅行

大斎原は「おおゆのはら」と読みます。斎が「ゆ」ですが、この字は『広辞苑』によれば、神仏を祀るとき、身体を清く保つこと。神社検定のテキスト『神社のおへそ』には、天照大御神が「わたしが高天原で食している斎庭(ゆにわ・神聖な田)の稲穂を、わが御子にあたえよう」という邇邇芸命に与えた神勅がでてきますので、たぶん大きく広がった神聖な場所のことだと考えます。

巻頭の写真は、江戸時代に描かれた「熊野本宮並諸末社絵図」ですが、その説明に、ーー熊野坐神社(現・熊野本宮大社)は、熊野川・岩田川・音無川、三つの川が合流するここ大斎原の中洲に鎮座していました。熊野の神々は、中洲のイチイの巨木の梢に三体の月の姿で降臨したとも伝えられています。 1889年(明治22年)、熊野川の大洪水によって建造物が倒壊しましたが、辛うじて倒壊を免れた上四社(三棟)を北西の現在のこの地に移築し、遷座いたしました。倒壊した中社・下社と摂末社の神々を二基の石祠それぞれに祀りました。江戸時代に描かれた『熊野本宮並諸末社図絵』から、かつての一万坪を超える境内の概要がうかがえます。 一番大きな川が熊野川であり、左方より流れ込んでいるのが岩田川、大きく蛇行した後、街並みに並行して流れているのが音無川です。森に囲まれた中洲には、横一列に並ぶ十二柱の神々を祀る社殿と上神楽所、その前には大きな社殿がみえます。社殿前の大釜は、現存する『伝源頼朝寄進鉄湯釜』(宝物殿展示)です。これらを囲む形で門を設え塀が廻り、その外には幾棟もの摂末社が立ち並び、宝蔵・文庫・神馬舍・能舞台などが散在しています。 街並みから音無川を越えて境内に入る箇所に太鼓橋が架かっています。江戸時代までは橋が無かった為に、参詣者は川を渡り足を濡らさなけらば境内にはいれませんでした。これを「濡藁沓の入堂」といい、全ての参詣者が自然に身を清める禊ぎをしたわけです。 下流の三川合流地点には船着場がみえますが、ここが新宮へと向かう「川の参詣道」の出発地点でした。-- かなり長い文章でしたが、すべて掲載させていただきました。

また前掲の神社検定テキストには、熊野本宮大社の宮司様の話が紹介されています。

「大斎原を上から見ると子宮のような形をしています。当社が本来あった場所は、周りを聖なる川に祓われた清浄な空間だったのです。人々はつらい旅路の果てに、川を徒歩で渡り身を清め、その子宮の中に入っていった。そして魂を一度そこに戻し、祓われた新しい魂とともに現実世界に帰っていったのだと思います。」

この発想・言葉は、宮司様の文章を読む前に、この絵図をみて筆者の頭に浮かんだ思いと同じでした。巻頭絵図のような大斎原の全景を鎌倉時代以前の参詣が眺めたか?どうかは分かりませんが、周辺の高い山の上から見た可能性や絵図みたいなものがあった可能性は否定できません。宮司様は「自然に対する畏敬の念」だといっていますが、その言葉は、参詣目的の本質に迫るものだと考えられます。後鳥羽上皇が上皇になってから承久の乱までに10カ月ごとに28回も参詣したのは、現世利益の功徳以上に魂を揺さぶられた何かがあったからではないかと、妄想はふくらむばかりです。

 

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