諸説あるようですが、鶴岡八幡宮では源実朝の命日を1月27日にしています。800年前のその日は実朝が右大臣になる拝賀の日。鎌倉では珍しく大雪が降ったようです。源頼家の子である公暁が実朝を暗殺した様子は『吾妻鏡』や『愚管抄』に書かれていますが、ここでは吉本隆明の著作『源実朝』から引用してみましょう。
夜に入って奉幣をおわって、宝前の石段をおりて、こ従の公卿が並び立つまえを会釈しながら裾尻をひいて笏をもってすすむところを、法師の衣裳で頭巾をしたものが馳せ寄せて、かさね衣のすその尻を足で踏みつけて、頭部を一の太刀で斬りつけ、倒れたところを、頸をうち落としてとった。(一部略)源仲章が前駆をうけたわって火明りを振りながらいるところを、北条義時だと勘違ちがいして、おなじように斬りふせて殺して逃げた。義時は太刀をもって傍らにいる近習をおさえ、中門にとどまれと申しつけて留めおいた。
愚管抄の記述は『吾妻鏡』と違い北条義時がその場にいます。ただ源仲章は義時と勘違いされて殺されていますので、当日になって義時の役割がなんらかの理由で変わったのかもしれません。ただ義時が拝賀の式典を欠席したとは書いていませんので、戌神将のお告げの話はどうも後世の作り話かもしれません。
また公暁は大銀杏の背後に隠れていたという話も、江戸時代になってあの徳川光圀が『鎌倉日記』に書いたもので、こちらも作り話のようです。実際、鶴岡八幡宮の大銀杏は2010年3月10日に倒伏し、9年近く経った今では、写真のように新しい命がすくすくと育っています。倒伏した大銀杏の樹齢は800年以上と言われていますが、そうだとすれば当時の銀杏の木は身を隠せるほど大きくなかったと思われます。
中公新書の『承久の乱』を書いた坂井孝一氏は、この事件は公暁の単独犯ではなかったかと推測しています。とはいっても、公暁を唆せた北条義時、三浦義村などの黒幕がいなければ、実朝を題材にした多くの小説は書かれていないでしょう。本当はどうだったのでしょう・・・・?
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