
最近の興味は何かといえば、①徳川家康は『吾妻鏡』から何を学び、徳川幕府の制度設計に活かしたか?②「権威と権力」の違いは何で、歴史上の権力者はどう使い分けようとしたか?の2点になります。ともに難しい問いであり、まだ答えは見つかりません。
そんななか、中公新書『源頼朝』(元木康雄著)という本を読みました。いまさら「源頼朝」を勉強することに躊躇いと恥じらいがありましたが、そこはその基本を理解せずに中世史を語れないと反省した結果です。著者の元木氏は京都大学出身で中世前期政治史を専攻したとあります。以前に紹介した石井進、五味文彦、本郷和人の諸先生は東京大学の出身ですが、両学派に違いがあるのか興味深いところでもあります。
前置きはともかく、本書を読みますと、元木氏は引用する場合に、『吾妻鏡』と『玉葉』・『愚管抄』など朝廷の近くにいた人物の日記を比較し、事実を確認しています。最近の中世史を書いた本は、少ない史料からより客観的に史実を伝えようと工夫し、歴史の素人にも分かり易いと思います。頼朝は53歳の働き盛りに謎の多い死に方をします。私は頼朝が樹立した鎌倉幕府は、王朝権威と一線を画した政権運営を貫いたかと思ってきましたが、元木氏の以下の文章を読みますと、結局平清盛と変わらず、最後は王朝権威にすり寄っていった様子が分ります。
古めかしい王朝権威に依存した頼朝を非難するのはたやすい。しかし、所領の新恩給付は戦時下であったがゆえに可能となったのである。また、内乱以前の武士に対する恩給は官位であった。平時に移行した頼朝が、官位を中心とする王朝権威に依拠して主従関係を維持するのは当然のことだったのである。
またむすびのところで、いつ瓦解してもおかしくない鎌倉幕府を救ったのは、頼朝後家としての政子の権威だった。亡き頼朝の権威は、幕府を守り続けたのである。と著者は述べています。全てではないにしても、徳川家康はこのあたりのことを学んだのかもしれません。
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