禅語ではないと思いますが、浄智寺の外門(総門)に「寶所在近」の扁額が掛けてあります。その意味については諸説ありますが、私なりに解釈したものを紹介します。前々回のこのブログで「直指人心 見性成仏」という禅語を載せましたが、私自身はそれと対になるものと理解しています。
それは法華経のなかにあるということなので、調べてみますと、岩波文庫『法華経 中』(坂本幸男・岩本裕訳注)の妙法蓮華経巻第三に化城喩品第七に「寶所在近」という字句がありました。
「寶處在近。此城非實。我化作耳。」(宝処は近きにあり。この城は実にあらず。われの化作せるのみ。)
拾い読みですが、「案内人が僧たちを導き煩悩の密林を通り抜けようとしますが、その道は果てしなく遠く、抜けるのは容易ではありません。僧たちは疲れ果て挫折しようとしますが、案内人は神通力で都城を造り、僧たちを休ませ、励まします。そして気力を取り戻した頃にその都城を消し去り、化城であったとたねを明かします・・・」といったことが書かれています。
どうも、「本来めざすべき悟りへと導く手段として方便もいかされる」という意味のようです。元々この「寶所在近」の扁額は無学祖元の筆によると『新編鎌倉志』に書かれていますので、北条時宗の公案を解くことへの執着を戒めるために無学祖元が北条時宗に送った言葉かもしれません。
浄智寺は、この外門をくぐれば鎌倉石の階段があり、その先には化城にも見える唐様の鐘楼門、そして仏殿の三世仏。さらには鎌倉七福神にもなっている布袋尊(弥勒菩薩の化身)。この布袋尊が指差すのは、公案による直接指導を説く「直指人心 見性成仏」の意味か・・・?
この境内整備されたのは昭和になってからと言われてますが、もし私の妄想するストーリーで設計されていたとすればこんなに愉しいことはありません。
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