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時代は遡り13世紀後半、塔の辻から長谷小路を西に行けば、稲瀬川沿いに長楽寺(鎌倉文学館付近)を右に望み、安達盛長邸、甘縄神社、千葉胤綱邸を過ぎれば長谷山の中腹に長谷寺がありました。坂東三十三観音霊場の4番札所。観音堂には大和の長谷寺と同体の十一面観音菩薩像が拝めます。今も多くの参拝者で賑わっていますが、鎌倉時代も近くの阿弥陀様の大仏とあわせ、民衆の信仰の対象となっていたと思われます。
お寺の縁起によれば、大和の長谷寺の開山である徳道が天平八(736)年ころ開いたと伝えられていますが、『吾妻鏡』等の当時の資料にこの長谷観音の名前がでてきませんので、はっきりしたことは分からないようです。ただ文永元(1264)年の年号と「新長谷寺」の文字がある大鐘が遺されていることや、観音三十三応現身像、『長谷寺縁起』、銅造十一面観音懸仏などの宝物をみると、お寺の由緒を感じます。当時の鎌倉幕府は京から鎌倉入りする西の入口に、東大寺の大仏や長谷観音に負けないくらい大きい仏像を造ることで、権勢を誇示したのではないかと推測されます。
では何故に『吾妻鏡』などに記録がないのか?長谷(深沢)の大仏や廃寺となっている極楽寺西方にある聖福寺などは、北条一族が旦那になって建立されたと考えられますが、史料によれば民衆の浄財によって建てられたことになっています。北条一族が正面にたたず、民衆主体の事業であったことを強調する必要があったかもしれませんね。
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