観応の擾乱とは足利尊氏とその弟足利直義の対立から観応元年(1350)10月から直義が亡くなる観応二年2月まで続いた全国規模の内乱です。その経緯は別の機会に譲るとして、今回はその最後の舞台である薩埵山の戦いを取り上げます。薩埵峠で富士山の雄大な姿をみて感激し、興津方面に下った先に写真にある「舞台」と書かれた案内と白拍子の看板に目がとまりました。
内容は、観応の擾乱の時尊氏は長引く薩埵山の合戦の合間に此の地に舞台を設け愛妾の萬城姫(京の白拍子)が舞を舞い軍属兵士の慰労の宴を開いたとされる。村人は此の地を舞台と名づけた。なお尊氏は厳しい戦況のため姫をこの土地の名主に預け直義軍を追って東征する。その後姫はこの地に永住することとなる。また萬城姫の舞を「萬城の舞」ともいい「マンジョウマエ」(萬千代前)の地名も近くに残っている(水土里の会)。というものです。
薩埵峠にも薩埵山の合戦の案内があり、この山一帯が合戦の場であったようです。『観応の擾乱』(亀田俊和著)にこの薩埵山の戦いのことが書かれた箇所がありました。
観応二年(1351)十一月二六日、尊氏軍は遠江国掛川まで進出した。二九日には駿河国薩埵山に到着し、ここに籠城した。・・・。『太平記』によれば、薩埵山に籠城する尊氏軍三〇〇〇騎あまりを、直義軍五〇万騎が包囲したという。例によって『太平記』の誇張であるが、この箇所は特に極端である。・・・。また薩埵山包囲戦の最中、直義は伊豆国府から一歩も動かなかった。・・・。下野・武蔵勢の接近により、薩埵山を包囲していた直義軍は崩壊した。薩埵山に籠城していた尊氏派の仁木義長隊が伊豆国府に接近したため、直義は一戦も交えずに同国北条に撤退した。
その翌年の正平七年(1352)二月二六日に直義は鎌倉でなくなりました。直義擁護派の私としては、なんとも情けない顛末で残念なのですが、東海道歩きの旅で縁の地を見つけたことで良しとすることにしました。
やはりフィールドワークは必要です。歩いてみなければ発見はありませんね。
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