
江戸時代の『新編鎌倉志』では鎌倉の妙本寺の末寺で「安国寺」いう。門には大永元年(1521)幽賢書「安国論窟」の額、門を入って右の岩窟、『立正安国論』が書かれたところであると紹介されています。
写真は御小菴です。その奥に御法窟があります。この場所で日蓮が書いたとされ、その後、松葉ヶ谷法難の原因となる『立正安国論』には何が書かれているのでしょうか。まず時代背景を理解する必要があります。日蓮がこの書を北条時頼に提出したのは文応元年(1260)。その前、正嘉元年(1257)には鎌倉で大地震。その翌年には大洪水と自然災害が続きました。多くの家屋が倒壊し、路上には行き倒れの亡骸が放置され、そんな悲惨な状況を日蓮は看過できず、時頼に意見書を提出したのでしょう。
手元の『日蓮 立正安国論(佐藤弘夫)』よると、『立正安国論』は客(北条時頼)と主人(日蓮)の問答形式で書かれていますが、二人の「仏法なくして安国はない」という議論の前提となる認識は一致しており、主人は今の世の乱れの原因は仏法の乱れ、その仏法の乱れの原因は、「他の教行を拒否して念仏を専修するという法然的な選択主義にある」としています。この徹底した専修念仏批判が浄土宗門徒の怒りをかい、松葉ヶ谷の法難となるわけです。禅宗や忍性の真言律宗を批判するのは、まだ先のことです。私個人的には、なぜ日蓮が法然の専修念仏批判を繰り返したのかまだよく理解できていません。
もう一つ『立正安国論』では大事な部分があります。それは日蓮が蒙古襲来を予言したとされる 「薬師経の七難のうち五難はすでに起こったが、まだ二難が残っている。他国侵逼の難と自界叛逆の難である」の箇所です。この「他国侵逼の難」が1268年の蒙古から国書到来、1274年の文永の役、1281年の弘安の役を予言したとされています。また「自界叛逆の難」は1272年の北条時輔が討たれた二月騒動といわれています。因みにすでに起こったとされる五難は、疫病の流行、星の運行の乱れ、日食月食、暴風雨、日照りを言います。
最後になりますが、境内には、墓地にIHIや東芝社長、経団連会長を歴任した「ミスター合理化」こと土光敏夫氏の墓、日蓮を信奉した正岡子規の歌碑などがあります。日蓮の生き方に惹かれたのでしょうか。日蓮は人を魅了する不思議な人です。
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