人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

熊野詣 PART10② --熊野那智大社--

2024-06-21 10:17:47 | 旅行

熊野三山詣の巡礼の旅は三か所目の熊野那智大社参拝です。今回のツアーでは、二日目に熊野速玉大社を参詣しましたので、串本の橋杭岩のホテルから直行となりました。平安時代の熊野御幸では、熊野速玉大社で一泊し、熊野那智大社までは歩いての参詣でした。バス旅行なので近く感じましたが、歩いて来るには結構な道のりです。それではいつものように案内板を書き写した「熊野那智大社のご由緒」から始めましょう。

熊野という地名には諸説ありますが、紀伊続風土記には「熊野は隅にてコモル義にして」とあり、「奥まった処」「隠れたる処」との意が、また「クマ」と「カミ」とは同じ意があると考えられ、「クマノ」とは「カミの野」で神々が住まう地といえます。 往古、神武天皇御東征のみぎり、この地に上陸された神倭磐余彦命(神武天皇)が那智の大瀧を神として祀られたのが那智山信仰の始まりとされ、その後、命は熊野の神使である八咫烏の導きにより大和の地に赴かれ、橿原宮で初代天皇に即位されました。 当社は仁徳天皇五年(317)、この那智山中腹に社殿が創建され、御瀧本より熊野の神々を遷座してお祀りしたと伝えられています。御祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)と申し上げる我が国の最初の女神「伊弉冉尊」を主神として十三所の神々をお祀りし、全国の熊野神社四千余社の御本社である熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)の一社であり、「日本第一大霊験所 根本熊野三所権現」として崇められています。主神の御名「夫須美」は「むすび」と同意であり、諸願成就の神徳があり、かつては「結宮(むすびのみや)とも称されました。 熊野信仰は、我が国に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、修験道の隆盛とも相俟って熊野権現と崇められ、平安中期頃より上皇(法皇)が詣でる熊野御幸は百余回に及び、やがて武将や庶民に至るまで大勢の人々が詣でるようになり、「蟻の熊野詣」と称されました。 那智山信仰の根源である那智の御瀧は、当社の別宮「飛瀧神社」と申し上げ大己貴神(おおなむちのかみ)をお祀りしています。

巻頭写真の御本殿は、熊野権現造りと称し、正面に五棟、側面に一棟と御縣彦社・鈴門・瑞垣からなっており、現在の建物は豊臣の世に再興し、その後享保・嘉永の年間に大改修され、平成七年に国の重要文化財に指定されています。 御社殿及び境内域は平成十六年(2004)に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。

熊野那智大社の参詣では、最初に那智の滝を飛瀧神社でまじかで見て、その高さと流れ落ちる水量の凄さに圧倒され、神の存在すら感じました。飛瀧神社をあとにして熊野那智大社に向かいますが、簡単には那智の滝は拝めません。熊野那智大社の駐車場からきつい階段を上らないと本殿に行くことは叶わず、苦行の参詣は続きます。ツアーによっては、この参詣道をタクシーでいくコースもあるようです。本殿に参詣していよいよ那智の滝との再会です。このワクワクした気持ちがたまりません。

 

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熊野詣 PART10① --那智御滝 飛瀧(ひろう)神社--

2024-06-20 10:26:28 | 旅行

この飛瀧神社は熊野那智大社の別宮です。巻頭写真にあるように那智の滝を下から見上げるような場所に祀られています。神社のご由緒と那智の滝について現地案内板よりご紹介しましょう。

その昔、御東征のみぎりこの地に上陸された神倭磐余彦命(かむやまといわれびひこのみこと・神武天皇)が、この御瀧を仰がれ大己貴神を祀られました。のちに飛瀧権現と称され、今は飛瀧神社として熊野那智大社の別宮となっています。俳人高浜虚子は、「神にませばまことうるわし那智の瀧」と詠じています。 この御瀧は、那智山から湧き出る水の流れが、断崖にかかり落下する名瀑であり、国の名勝に指定され世界遺産ともなっています。一段の瀧としては落差日本一で、御瀧の高さは一三三メートル、銚子口の幅は一三メートル、瀧壺の深さは10メートル、平時の水量は毎秒一トンといわれています。 この地には、宇多天皇をはじめ百十余度の御幸があり、花山法皇は千日間の山籠もりをされ、また修験道の開祖とされる役行者の瀧行以来、ここは修験道の場となりました。

熊野三山の象徴といえるのがこの那智の滝ではないかと思います。飛瀧神社の鳥居の前に立つと圧巻です。天上から流れ落ちているのではないかと錯覚する滝の威容、近寄り難く、惧れさえ感じるゴーゴーした音など、神話の世界でなくとも否応なく神の存在を実感させられます。鎌倉時代に遠藤盛遠(文覚上人)が出家後に最初に修業したのが、この那智の滝であり、厳冬期の滝行で危うく死にかけたところを不動明王の眷属である二童子に救われたという話はよく知られています。自ら犯した罪を贖罪するためには、願かけの滝行を成就するしか道はなかったのでしょう。那智の滝を目の前にして文覚上人の心の中を少し垣間見たような気がしました。

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熊野詣 PART9④ --番外編 橋杭岩--

2024-06-17 04:57:22 | 旅行

今回のツアーで2泊目はフェアフィールド・バイ・マリオット和歌山・串本という奇岩「橋杭岩」の目の前にあるカジュアルなホテルでした。

さてこの橋杭岩ですが、巻頭写真にあるとおり、海に突き出た岩塔が橋の杭のように見えることから名前が付けられました。陸から長さ約850m、幅約15mの40ほどの岩塔が連なる様子は見ごたえがあります。地質学的には、今から約1500万年から1400万年前に地下から上昇したマグマが熊野層群に貫入した流紋岩の岩脈であると、南紀熊野ジオパークの解説にありました。またこういった奇岩ですから、弘法大師と天邪鬼が大島まで一晩で橋をかける競争をしたという伝説が残っています。近くには道の駅くしもと橋杭岩や弘法湯などの観光施設があり、橋杭岩から昇る朝日が美しいと日本の朝日百選にも選ばれています。

 

 

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熊野詣 PART9③ ーー番外編 本州最南端 潮岬--

2024-06-16 13:05:18 | 旅行

熊野三山参詣ツアーも、熊野本宮大社と熊野速玉大社の参拝を済ますことができました。2日目の夕食は串本町でいただくことになっています。幼いころの記憶で、串本といえば串本節です。「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡行船・・・。」大事なことは忘れても妙なことはしっかりと記憶に残っているものですね。生きているうちに串本節の地元を訪れることができました。今は巡行船はなく、大島へは立派な橋が架かっています。また途中、スペースワンの打上げ射場の近くを通りました。最近小型ロケットの打上に失敗したニュースが流れたばかりで串本の名前を記憶していました。さらに串本港の近くには近大マグロで有名な近畿大学のクロマグロの養殖場もあります。串本町は紀伊半島の南端の町ですが、宇宙開発と水産業の最先端の場所であったとは驚きです。

さて夕食場所は潮岬観光タワーですが、この場所は本州最南端の地であります。食事場所から歩いてすぐのところです。因みに本州最東端は岩手県宮古市の近くのトドが埼、最南端がここ潮岬、最西端が山口県下関市毘沙の鼻、最北端は青森県大間崎です。これまで日本全国を旅行していますが、最〇端の地を踏むのは初めてです。一日目の道成寺に続き、二日目は本州最南端の潮岬と、さりげなく気を使っているツアーだと感心しました。

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熊野詣 PART9② --熊野御幸ーー

2024-06-16 08:31:24 | 旅行

熊野速玉大社の境内の中に、巻頭写真に載せましたが「熊野御幸」の立派な屏風仕立ての石碑がありました。また熊野御幸(くまのごこう)を説明した案内板が設置されていましたので、これも書き写してきました。

中世、宇多上皇(第五十九代天皇)の延喜七年(907)から玄輝門院の嘉元元年(1303)までの三百九十六年間に上皇、女院、親王を合せて御二十三方、百四十回に及ぶ皇室の御参詣があり、これを熊野御幸と言って熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。 熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後に御出発になる。白河天皇の天永元年九月の御幸には、総人数八百十四人、一日の食料十六石二斗八升、傳馬百八十匹と「中右記」に記している。 御幸の道順は、京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸沿いに南下して田辺、中辺路、本宮、熊野川を下って当大社へ参拝、那智山、雲取、本宮、往路コースを逆行して帰京されるまで、およそ二十数日に及ぶ難行苦行のたびであった。熊野御幸によって熊野信仰は公卿、武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられるなど、各方面に大きな影響を残している。

この案内板の文章は、非常にコンパクトに熊野御幸の内容がまとめられており、当時の様子がよくわかりました。総人数約816人が約20数日間に及び熊野御幸に出向くとなると、いったいいくらの費用がかかったのか?沿道の庶民はその支援のために労役を提供しましたが、その負担は大きかったと想像されます。後鳥羽上皇などは生涯で10カ月おきに28回とも29回ともいわれる熊野御幸に出向いています。その費用を誰が負担したのか?その目的は何だったのか?

『吾妻鏡』には残っていませんが、現地の人の話では、北条政子も2回熊野詣に来ているとのこと。もしそうだとすれば、まだ源頼朝が生きていた頃の話です。熊野本宮大社の大斎原に置かれ、今は宝物館にある湯釜、熊野速玉大社の神倉神社の538段の階段は源頼朝が寄進したものと伝わっていますが、史実かもしれません。そしてもし北条政子の熊野詣が本当だとすれば、実際に熊野詣をしてみた北条政子の眼に熊野御幸がどう映ったか?源実朝死後の政治判断にどう影響したか?妄想は膨らむばかりです。

 

 

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