木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

直訴は死罪になったのか?

2014年11月01日 | 江戸の暮らし
一揆や直訴と聞くと、佐倉惣五郎に代表される義民伝説を連想する人も多いはずだ。
直訴を行うと、陳情者は必ず磔獄門に処せられたかのようなイメージである。

しかし、そのイメージは正しくはない。
江戸時代では驚くほどの数の一揆や直訴が行われていた。
それらの指導者で処分されなかった者は、処分された者よりずっと多いのである。

百姓一揆に対する処置が明文化されたのは、吉宗の治世下、寛保元年(1741年)が初めてである。

頭取死罪、名主重き追放、組頭田畑取上所払、総百姓村高に応じ過料

と厳しいものであるが、厳密に守られなかったようである。事実、一揆はこの規定ができた以降も減るどころか、増える一方だった。
しかも、この取り決めは天領(幕府直轄地)に留まるものであり、各藩内の領地の一揆まではカバーしていなかった。

「百姓と胡麻の油は絞るほど出るものなり」
と暴言を吐いたのは元文二年(1737年)勘定奉行に就任した神尾春央であり、彼は強硬に年貢増税策を推進しようとし、ある程度の成功を納めたが、農民も黙ってはいなかった。
たとえば、畿内の天領領民は年貢未進を武器に、減免の訴願を続けた。
訴願は代官所だけに留まらず、大坂町奉行、京都所司代、京都東町奉行、江戸勘定奉行、京都目付、朝廷の内大臣とあらゆるところに行い、二万人の百姓が京に集結した。
その結果、延享三年(1746年)には、妥協せざるを得なくなる。
享保以降、年貢増税政策を推進してきた幕府であったが、これ以降は大規模な年貢増税はできなかった。

訴願は今で言う訴訟のようなもので、禁止はされていなかった。
また一揆の規定もあいまいで、強訴の目的で集まったとしても取り締まりの対象とならない場合も多かった。
訴えは、
合法的訴願 → 弾圧・無視 → 領主への訴願(越訴) → 弾圧・無視 → 幕府への越訴
といった過程を経るケースが多かったが、幕府は農民から訴え出られると、意外なほどしっかりと調査を行った。
その結果、改易に処せられる領主もおり、場合によっては切腹を申しつけられる者もいた。

幕府は明和三年(1766年)から徒党禁止令を頻発するようになるが、この禁止令によると百姓一揆とは「徒党・強訴・逃散」と規定した。明和八年(1771年)五月には処罰細則も定められ、一揆鎮圧に鉄砲の使用が認可された。

しかし、百姓一揆は打ちこわしへと闘争形態を過激化して行き、減ることはなかった。
参加者も百姓だけでなく、町人、商人も加わるようになり、身分的差異が障害とならなくなっていた。

武士の経済的な危機状況が深刻化していくと、藩主と家臣団は経営者対被雇用者としての対立図式を深めることになった。
その中で、年貢の税率をどうするかという政策を巡っては多くの藩の内部で対立を招いた。
この対立は諸藩と幕府の対立にも繋がっていったため、百姓一揆には誰もが神経をとがらせた。

百姓一揆は初期は減免や不正代官の粛正を求めていたが、後期には幕府の政策そのものを否定する動きが出てきた。
たとえば、水野忠邦の「三方領地替」である。
幕府は、庄内、長岡、川越の三藩に領地替を命じたが、各藩の百姓は幕閣への度々の駕篭訴、隣接諸大名への訴願などを行い、その混然とした様は「天下の大乱と相申すべき」と表現されたものだった。
領主も訴願を抑制できず、次第に上地令反対へと向かわせていく。
その結果、幕府内部でも分裂が起き、ついに水野忠邦は罷免される。
民衆の声を力で抑えるつけるには、限界が来ていたのである。

参考資料:一揆の歴史(東京大学出版会)
     百姓一揆とその作法(吉川弘文館)保坂智



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