※ 昨日の続きのようになるけれど
母と その姉の叔母は祖父と祖母の作った店で働いていた。
私の推測だが、祖父と祖母は口減らしの為に北海道へ流れてきたのだと思う。
何処で二人が知り合ったのか、旅に出る前から一緒だったのかは分からないが、長い長い蒸気機関車の旅の末、当時線路の先がない終着駅である、今私たちが暮らしている町の駅に降り立ったのだと思う。
啄木が 「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠んだ時よりもさらに昔だから、寂しさはさらに強く 寒村のような町だったのではないかと思う。
そこで暮らす決心をし、住居を作り商売を始めたのだから祖父と祖母の苦労は並大抵ではなかったのではないかと、本当にそう思う。
その証拠に祖父は私の生まれた4年前に61歳で他界していて残された祖母が私の母と叔母(母の姉)とで細々と店を維持していた。
自慢じゃないが、祖父は遺影を見る限り本当にキリッとして良い男だった。これは断言できる。
遺影はもう残っていないが、目を閉じるといつでもイケメンの坊主頭のおじいちゃんが私を見つめている姿が浮かぶ。
私はお婆ちゃんっ子だった。オッパイをくれなくなったお母さんには見切りをつけたと云うことだ。
いつもお婆ちゃんの姿を探し傍にいた。
お婆ちゃんは寝るときによくオハナシをしてくれた。記憶しているのは紙の上に 粉を広げて乾かしていたのにオナラをしたら全部飛んで消えた と云う 本当か嘘かわからないオハナシだけれど、何回聞いても面白くて私も笑った。
ある日、急に不思議に思ったことをそのまま婆ちゃんに訊いた。
「ねぇ、ボクはどこから産まれたの?」と云う疑問だ。
お婆ちゃんは、家の裏口の先にある「あの木のマタだよ」と教えてくれた。
私はそれを信じて、以後少し高い位置にある木のマタを何とか覗き込もうとしたが手の先しか届かず、ナデナデして過ごすことが多くなったのだが、子供ながらに(何か違うんじゃないか)と疑問が沸いた。
それで、今度は母に同じ質問をしてみたら「お母さんのお腹から産まれたんだよ」と教えてくれた。
だから「お母さんなのだ」と木のマタよりは信じられる言葉だった。
だが、新たな疑問ができたので訊いた。「お腹からどうやってボクが出てきたの?」と云うことだ。
それにお母さんは「一瞬だけパカッとお腹が割れるの。少し痛かったけれどね」と説明した。
そうだったんだ、お母さんは痛みに耐えて頑張ってくれたんだ。と改めてお母さんの凄さを思った。
でも今は知っている。アノ説明にも少し嘘が入っていたことを
出てきたのは、ずーっと ずーっと下の オマタだったんだよね。