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仏教における執着の否定について 

2005-01-29 12:14:29 | 経営-ミッション-ビジョン-グランドデザ
哲学
仏教における執着の否定について

 執着とは、一つのことに意識を固定化させることによって、そのほかのことにまで考えが及ばなくなり自分を中心に物事を考えてしまうことである。
 では、執着とはどのような場合に起こるか。人は生きている限り、何らかの目的を持つことは必然であるが、立てた目的が人生のすべてだと思い込んでしまうと、人間は執着に陥ってしまう。目的を持つことが執着の問題ではなく、目的を絶対視してしまうことが問題なのである。人間はいかにすばらしい目的を立て、それを追求したところで、自身のみでは生きることはできない、なぜなら、この世の森羅万象は、縁起の法則にしたがっているからである。縁起の法則とは、すべての物事は原因があって起こるということである。すべての事物は存在する限り、相互に依存しあう関係なのである。目的を絶対視してしまうとそのことを忘れ、自分が他とは関係ない存在だと思ってしまう。仏教はこれを否定している。
 これは自然についてもいえそうである。人間は自然を破壊しているが、それはやがて自分やその子孫の未来を破壊することに帰着する。そのことに我々はしばしば気づかない。これを説明するために植物を考えてみる。植物は我々の食糧となり酸素を供給してくれている。にもかかわらず生活を便利にするなどの理由で、植物を容易に無駄に破壊してしまう。我々は植物がなければ生きることができないのに。植物は人間がいなくてもいきることができるのである。地球を守ろうなんて掛け声はおごりとさえいえそうである。地球は我々が守らなくても存在し続けるだろう。それがなければ生きていけないのは私たち自身である。自分が何らかのものに依存していることをもっと冷静に考えなければならない。



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