年末は クリスマスソングがいたるところで流れていた。
例年 立冬 つまり 11月8日前後からぼちぼちクリスマスソングが流れ始め 12月24日または25日まで流れている という 感じだ。
今年も 大体 そんな感じだった。
僕が見た(聴いた)範囲では12月25日は 一部 クリスマスソングが流れているお店もあった。
これも 僕の 感覚的なもので 多分に主観が入っているかもしれないけれど クリスマスソングも 最初のころは ポップス系の 元気で商品の購買意欲を盛り上げるような音楽 そして 12月24日が近づくにつれて 敬虔なトラディショナルソングの比率が多くなってくる という感じだった。
あくまで 感覚的なものなので 違っているかもしれないし 少なくとも 科学的ではない気がするけれど、、、。
そして 年が明けると どうだったかというと 僕の場合は モーツァルトをお店のBGMで耳にすることが多かった。
モーツァルトは コンサートなどで真剣に聴くと 一見明るそうでも 影の差す 音楽が多いけれど BGMとしてイージーに聴いていると 軽快で 明るい感じ 希望をもたらすような 感じに 聴こえることが多いので きっと 年明けのBGMに選らばれることが多いのだと思う。
あるお店で モーツァルトのホルン協奏曲がかかっていて やはり モーツァルトのホルン協奏曲のキラキラしたホルンの響きは 新年に ふさわしいな と思って聴いていた。
ところが 僕は ホルン協奏曲は 交響曲ほど 頻繁に 聞かないし CDで聴いていると 4曲入っているCDが 順繰りに曲を送っていくので そもそも どの曲が第何番かを知らない。
お店でBGMが流れているのを聴いて うーん ホルン協奏曲と言うことはわかるけれど 第何番かは わからないな と 思っていた。
ある お店では モーツァルトのピアノ協奏曲らしきものが流れていた。
ところが たまたま 僕が聴いた部分は 深い 響きのある個所で 「ええ? この 重々しくて厳かな感じは ベートーヴェンのピアノソナタか いや ちがうなあ モーツァルトか いや わからん」と思っているうちに 演奏が 第二楽章の 印象的なメロディにまで 進み 「ああ ピアノ協奏曲第26番 戴冠式だ」と思った。
それで そのことが とても 気になって 家に帰ってきて ウィキペディアで モーツァルトのピアノ協奏曲 第26番を 調べてみると この曲は モーツァルトが ピアノの左手のかなりの部分を作曲していない ということが 書いてあった。
そうか 左手部分は モーツァルトが 作曲していないから ピアニストが どのように左手を 演奏するかで ベートーヴェンのように聴こえたりする可能性もあるのかもしれない と自分で勝手に想像した。
そんな想像をしていたら 昨年読んだ あるブログにも モーツァルトの第26番は 彼が作曲していない部分もかなりある という主旨のことが書いてあったな ということを思い出した。
こういう 記憶の連鎖反応が 僕の場合 おこりやすいなあと思った。
でも 記憶の連鎖反応って 誰にでもあると 思う。
ある女性が 「あの人は 一度 嫌なことを 思い出すと あの時もこうやった その時も こうやった と次々 嫌なことを思い出して いつまでも 文句が続くから かなわん」とおっしゃっていたことを 思い出すけれど こういうのも 一度思い出すと 次々と関連して思い出すという 記憶の連鎖反応なのだと思う。
なるべく 負の連鎖反応は やめて えんえんと きりなく 文句をいうということは慎みたいな とは 思うのだけれど、、、。
年始のモーツァルトのBGMに話を戻すと ある 家具の量販店でモーツァルトのピアノソナタが かかっていて これは すぐに モーツァルトのピアノソナタとわかったけれど さて 一体 第何番なのか 思い出せないというか そもそも 知らない というもどかしさを 味わった。
そんなことを 考えていたら 昔読んだ 村上春樹さんの小説で 主人公がモーツァルトの「フィガロの結婚序曲」を口ずさんでいたら 知らぬ間にそれが 「魔笛序曲」に変わってしまい 自分が 「フィガロの結婚序曲」を歌っているのか「魔笛序曲」を歌っているのかわからなくなってしまった という主旨の記述があることを思い出した。
これなども 本当に あるある という話で 面白いなあと思って読んだ記憶がある。
モーツァルトが 同じ素材 あるいは 似たような素材を 微妙に形を変えていろんなところで 使っている という特徴を よくとらえた 村上春樹さんの記述であると個人的には思う。
僕の場合「魔笛序曲」の弦の細かい動きと 交響曲第38番「プラハ」第一楽章の弦の細かい音の動きが 自分の中で ごっちゃになってしまうことが時々ある。
音のパターンが似ていると言えば モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲K.299」と 「アイネクライネナハトムジークK.525」の冒頭の音のパターンが似ているような気がして 僕はK299を聴くとしばしば アイネクライネナハトムジークが 心の中に浮かんでくる。
どちらの曲の冒頭も その調の 主和音上にある音を うまく使った インパクトが強くて とても基本的なメロディラインになっている。
ことさら 複雑なことをするのではなく むしろ その逆に 基本的な音を 自由自在に駆使する そこに モーツァルトの天才の 本質があると思う。
「基本的な事柄を自由自在に操ることができるのが天才」 と天才の定義を 音楽以外に拡張させてしまっても 構わないとさえ 思ってしまう。
スポーツなどでも 超一流と言われる選手の 話などを聴いていると 基礎練習を徹底的にする という 人は多いし、、、。
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一月二日と三日の両日の夜に ちょっと お店に行きたくなり ネットで検索してみると イオンなど郊外の大型商業施設が なんと23時まで営業していると出ていた。
うーん 一月二日 三日は 人が夜遅くまで動くのか とそれを見て思った。
これは 東海地方の特徴なのか それとも 関西でも そうだったのか 今となっては 思い出せない。
そもそも 関西にいる頃は 郊外型の大型商業施設に行くということ あまり なかったので、、、。
茨木のイオンには 時々 行って フードコートで ねばって 本を読んだりしていたけれど 年末年始に行ったことはないし、、、。
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自動車も 普段に比べて あらゆる人が 道に繰り出すので いろいろと クラクションを鳴らされたり 普段と勝手が違うことが多かったなと思う。
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僕の実家は いろいろな方が ヘルプに来てくださって 正月の飾りなども その方々のヘルプのおかげさまによるところが 多い。
それで 正月のお飾りは いつまでにするのか ということになると めいめいの 感覚が ばらばらに なってしまい 必ずしも一致していない ということを 体験した。
僕も そういうことに関する知識が それほどあるわけではない。
ただ 関西で僕がよく行っていた お宮は 二つとも 1月15日くらいに 境内で お炊き上げがあって その日は 宮司さんも装束を着ておられるので まあ 1月15日くらいまでは 少なくとも 神社は 正月 という雰囲気だった。
それで いわゆる お飾りを飾る期間 つまり 松の内は いつまでか と言うことをネットで調べてみると 関東は1月7日まで 関西は1月15日まで と書いてあるサイトが複数あったけれど なぜか 東海地方は何日までと書いてない。
それで 検索語に 名古屋 を付け加えて 調べてみると 名古屋は基本的に関東に合わせることが多いけれど 松の内の考え方は 名古屋圏内でも地域によって まちまち とうことが 書いてあるサイトがあった。
それで こちらは かなり 人によって感覚が ばらばらに なるのかとも思った。
というか そもそも 僕と同じか 僕より若い世代は 松の内 ということを あまり 意識しなくなってきているのだとも思う。
たまたま 行った お店でも 店主と お客さんが 「鏡餅はいつまで飾っておくんや」という話をしていて ああでもない こうでもない まあ こんな感じか ということで 確たる自信を持っている人が あまり いない様子だった。
「近くの氏神様に行って 聞いたらいいやん」と口をはさみたくなったけれど 余計なことは言わない方が 「さわらぬ神にたたりなし」ということで 黙っていた。
それは ともかく 一日 いちにち 無事にすごせますように それを 第一に願っていきたい。