6月22日に京都市交響楽団第690回定期演奏会を聴きに行った。
もう演奏会から半月以上経過して記憶も薄れてきたけれど、それでもなんとか残っている記憶を思い起こして何か書こうと思う。
当日の指揮者は 井上道義さん
ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番 第2番がチェロ独奏 アレクサンドル クニャーゼフさんで演奏された。
ロシアのチェリストとプログラムに書いてあり、ロシアは今、戦争当事国であることを思い起こして、それだけでなんだかジーンと来てしまった。
戦争中でもこうして日本にやってきて演奏してくださるんだという思いと、戦争があっても人間は音楽をやめない という思いがどこかで交錯していたと思う。
チェロ協奏曲一番はステージを見ると金管はホルンだけであとの管楽器は木管であることに気づいた。
そして、僕がショスタコーヴィチのシンフォニーに抱いている特徴的なイメージは金管よりもむしろ木管のシャウトする感じ、まだ独特の不気味な感じであることに思いが至った。
実際、曲の冒頭付近でも チェロの不気味なモチーフに木管がやはり不気味な感じで合いの手を入れているのが印象的だった。
特に ファゴット クラリネットなどチェロと比較的音域が近いと思われる楽器(音域を調べたわけではないので詳しいことはわからないけれど)とチェロのからみはとても充実感に満ちているように僕には思えた。
僕は弦楽器の低い音にはよく耳が反応するけれど 木管の低い音にはあまり耳が反応しなくてファゴットってでかい割になにをしているかよくわからない楽器だなと思うことがあるけれど、このチェロ協奏曲ではファゴットの音もかなりキャッチすることができてよかった。
第二楽章など音楽が緩序になる場面では ショスタコーヴィチの何番という個別的なものではないけれど 全般にショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を心に思い浮かべることが多かった。
それだけ、演奏が精緻だったということなのではないかと思う。
続くチェロ協奏曲第2番ではやはり曲が静かで緩徐なところでは ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲が心の中で想起されることが多かった。
この曲もそれだけ演奏が精緻だったということなのだと思う。
演奏会プログラムの楽曲解説に「小太鼓のトレモロの上にホルンが調子っぱずれなファンファーレを拭く」とかいてあるところがある。
ここは例えば交響曲レニングラードで同じテーマを執拗に繰り返すように ショスタコーヴィチ独特の 執拗なことをこれでもかと繰り返し続ける という印象が小太鼓の側にもそしてホルンの側にもそしてもっと言えば二楽章から三楽章へと曲が続いていく場面全体に見られる。
そういう執拗な場面で小太鼓奏者の方が なんというか あまり派手な動作というのはなく遠くの僕の席から見ていると 僕が近眼ということもあるけれど ほどんど動かずに スッとそれをこなしておられるように見えて そういうことをそんな風にこなしてしまうというのもなんだか僕にはすごいことのように思えた。
最後に演奏されたのはショスタコーヴィチの交響曲第2番『十月革命』
この曲は冒頭の3分間くらい 弦楽器がいかにも現代音楽という感じの混沌とした音を奏でていく。
こういう場面になると、現代音楽が苦手な僕は通常、退屈してしまうのだけれど この日の演奏は その混沌とした音の一つ一つがセパレートに耳に聴こえてくるような気がして、本当にここでも演奏が精緻なんだな、よほど入念にリハーサルをされたのかな などと想像しながら聴いていた。
この交響曲が始まる前の休憩時間にプログラムに記載されたこの交響曲の合唱部分の歌詞の和訳を読んだ。
井上道義さんがプレトークでそうするように という主旨のことを話しておられたからだ。
その歌詞の中で「われらを束縛するもの、その恐ろしい名は、沈黙、苦悩、そして抑圧である」という言葉がひときわ目に止まった。というかそこだけ強く印象に残った。
そして、僕自身、束縛や抑圧を感じたとき、しばしばショスタコーヴィチの音楽を聴き、そこに表現された束縛や抑圧に対する怒り、悲しみ、茫然とした気もち、そうした心情に自分の心が同調し、ずいぶんと救われてきたことをしみじみと思い起こした。
そして、井上道義さんのおかげで初めて聴くショスタコーヴィチの交響曲もたぶん4曲くらいはあるのではないかと思い起こした。
その中で 井上道義さんが大阪フィルの音楽監督に就任されたときに演奏された交響曲ん第4番 そして この日の交響曲第2番の演奏がこれまでに聴いてきた道義さんのショスタコーヴィチの演奏の中でもっとも思い出深いものになった。
道義さんの演奏を聴くたびに このショスタコーヴィチなら世界のどこへいっても通用すると思って聴いていたけれど この日の京都市交響楽団の演奏もチェロコンチェルト、シンフォニーともに本当にその通りだと思えるような内容で本当によかった。
それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように、それを第一に願っていきたい。