硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

生きている事の意味。

2019-08-01 22:41:36 | 日記
60歳後半で、パーキンソン病と診断された人と、話す機会があった。

その人は、初めに「この病気は治らないものなのか?」と問うた。
僕は、その問いに対して、「現時点での医学では完治する事は難しいと思います」と答えると、その人はこれまでの経過を切々と話しだした。
パーキンソンと診断される前は、主治医からも整体師からも「よくなりますよ」と言われ、希望を持っていたという。しかし、パーキンソン病と診断されてからは、「治りませんねぇ」と告げられ、その時、その人は「だましておいてくれたらよかったのに」と思ったのだという。そして、何故、あんな事を云うのかと問い詰められた。
僕は、おそらくは、という前置きをした後「きっと、治ると言ったら責任が問われる事になるし、他人事だからだと思います」と答える事しかできなかった。

自身との気持ちとは裏腹に、身体の痛み、不自由さが日に日に増してゆき、その度に「生きている意味なんてないんじゃないか」と思ったと打ち明けた。
日に日に体が動かなくなってゆくのを自覚しながら、希望など持てる気にもなれない。
自覚があるなら、なかなか埋められる気持ちではないし、気休めになる言葉などない。
ただ黙って、その人の言葉にうなずくしか術がない。

僕は、無い知恵を振り絞り、
「リハビリを続けなければ、体力、筋力は落ちてゆく一方です。頭の中は若いままかもしれませんが、老いというものは平等なものであり、確実に僕たちの身体を死に追いやります」
と、言うと、その人は、「たしかに、そうかもしれないな。リハビリは続けないとな」
と言った。

現時点での科学の力では、どうする事も出来ない。その人の身体は、自分の意識とは乖離し続け、いずれ自分の力では自分の身体を動かすことが出来なくなる日が来る。
その過程で「生きていることの意味」を問い続けるであろうし、途中で絶望してしまうかもしれない。

言葉を持たなければ「生きる事の意味」など、なかったであろう、しかし、言葉を持ってしまったがために問われ続ける哲学的な問いに対して、我々は、誰もが納得できる答えなど、導き出せはしないだろうと思う。