今日一日だけ生きてみよう

卯月タラの日々のつぶやき

命日。

2015-01-25 23:20:28 | タラの日記
大切なお友達、R子さんの、命日。
5年になる。

R子さんの、のこされたご主人に、命日に毎年、お便りを送ってきた。
今年も。

いつも本当は迷う。
ご迷惑なのかもしれない、と。
亡き妻の友人から、命日になるたびに便りが届くことが、辛さを増幅させているのではないか、と。
私は、ご主人の傷に塩を塗るようなことをしているのかもしれない、と。

それでも、今年も便りを送った。

これは私の自己満足なのかもしれない。
多分、そうなのだろう。

忘れていない。
一緒に祈らせてほしい。
そんな気持ちがある。

でも、ご主人の痛み、悲しみは、私のそれとは、別々のものであるはず。
違う悲しみであるはず。
一緒に祈る、などと、ごっちゃにするのは、とても失礼なことかもしれない。

私が夫を亡くしてしばらく、命日になるとお供えを贈ってくれる人がいた。お正月に年賀状をくれる、夫の友人もいた。

夫の死を認めたくなくて、夫のことをひたすら忘れたくてたまらなかった私は、それをありがたいと思えなかった。
いまいましい、そんなふうに感じていた。
そして、転居の時、通知を出さなかった。

夫の友人には、悪いと思っている。
すまないと思っている。
でも。
あなたたちのように、私は純粋に悲しんだり惜しんだりはできないの。
私の中には、もっともっと、それだけじゃない、たぎるような憎しみや恨みや、名付けられないような感情が、たくさんたくさん渦巻いているの。
だから、一緒に悲しんだりできないの。
分け合うことはできないの。
この痛みや悲しみやもろもろの感情は、私一人のものだから。

そんな思いが、あった。
多分、今も、ある。

そんな私が、なぜ、R子さんのご主人に、同じようなことをしてしまうのだろう。
そっと、一人で手を合わせていればいいのに。

でも、多分、私は、どこかで耐えきれないほどの深い孤独を感じていたのだ。
分け合うことができないと思いながら、それでも分け合おうと、誰かに言い続けてほしかったのかもしれない。

R子さんのご主人に、私はそう言い続けたいのかもしれない。

おかしいね。
自分と同じなのではないかと思って、それで動いてしまう、私。
同じ悲しみでないことは、わかっているのに。

おせっかいが、人を酷く傷つけることもあるのに。

私は友達として、私の悲しみを悲しんでいれば、それでいいはずなのに。

R子さん。
もう一度、あなたの名前を呼びたい。
悲しい。