熊野古道(伊勢路)への旅の報告の最終回として、今回は古事記に書かれている2地点と景勝「鬼ヶ城」を紹介します。最初は神武天皇上陸碑跡。高天原(神の国)から九州の高千穂の峰に天下ったニニギノミコトの子孫で東征を開始した神武天皇は、最初大阪湾あたりで賊に敗れ、急遽和歌山県沖を南下、潮岬を回ってこの地に上陸したといいます。上の写真は観光案内図。私たちは釣り船をチャーターして、海路からこの地点を訪ねました。
上陸地点とされているところは、熊野灘の荒波が岩を噛む急峻な断崖の上にあり、太古の丸木舟では危険極まりない上陸となったと思われるが、そこは神様のこと、やすやすと上陸されたに違いない。でも待てよ。神武天皇は神様であったとしても、少なくとも200~300人いたと思われる部下たちが全員神様であったとは考えにくい。部下たちは天皇を敬い天皇に従った原住民、つまりは私たちの祖先ではなかったか。こう考えると、神は上陸の時だけ波を静めたに違いないと、夢は膨らむ。いずれにせよ天皇の一行は賊を征服しながら熊野川を北上して飛鳥の地に着き即位したことになっている。黄金に輝く八咫(やた)烏が天皇の弓の先に止まり、賊の目が眩み天皇側が大勝するのもこの途中のことであった。
ここに祀られている神様はイザナミノ命。この神様は神武天皇よりももっと古い神代の時代、始めて男女の神が現れたときの女神様。このご夫妻は淡路島を始め、多くの陸地や神々、さらには動植物をお産みになった。しかし、最後に火の神様をお産みになったとき、大変な火傷を負われ、ついに亡くなってしまわれた。それからいろいろ神話は続きますが、その女神がここに祀られていました。
ここは神話に時代ではなく、記録が残されている時代。先ずは海賊どもの隠れ家。続いて信仰の場となり観光の場となったって現在に至る。月並みな表現で恐縮だが、全てが自然の浪と風と岩が創り上げた巨大な芸術作品だ。チリ沖地震の津波によって遊歩道の一部が破壊され「通行止め」となっていました。
順不同の上、舌足らずで拙い報告をここまで読んで頂きありがとうございました。これで熊野古道報告を終わります。