このタイトルは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる四国伊予藩の下級武士秋山家で父が息子たちに云った言葉だそうだ。息子たちは以下(ヤフーのネット検索べ見つけた「坂の上の雲」のあらすじと紹介より)のように勉強した。
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古。東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之。病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規。この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの 約4年間、産経新聞夕刊に連載された。また、2009年から3年間、NHKでスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映される。この「ブログ」では、昔読んで身震いした203高地の戦いにふれ、日本と云う国がよきリーダーを育てるのに如何にダメな国であるかを述べたいと思っています。
次に明治37~38年に戦われた日露戦争に目を向けます。激戦地の一つが203高地。この高台は遼東半島内にある天然の良港旅順港を見下ろす標高203mの高台の名前で、日ロ双方にとって戦略上の重要地点で、開戦当初はロシア軍基地があり、それを奪還しようと日本軍が戦いを挑んだ攻防戦です。ロシアのバルチック艦隊がこの港に入ったら日本海の制海権はロシアに奪われてしまうと思われ、何としてでも203高地を奪還してそこに大砲等の基地を建設して、旅順港を日本側の管理下に置きたいという作戦上の最重要戦でした。「坂の上の雲」を初めて読んだ時身震いが止まらない個所があった。それは、乃木将軍が突撃を繰り返し戦死者の山を築いたところだ。これに関して今ネットで調べてみると最近モスクワで日露戦争時代の旅順港の写真が見つかったということで、これをもとに戦死者の山はどうしてできたかをNHKが調べて番組を創り放送したようです。それが、「そのとき歴史が動いた-203高地の攻防」でその映像がネット上で公開されていました。ここでは、この番組にもたれて戦死者の山のことを書きます。先ず203高地の場所です。日清戦争で日本が中国から賠償として取った遼東半島の一角。ここは「三国干渉」で中国へ返したが、そこを、ロシアが中国(清国)から租借し、ロシア極東海軍の軍港にしていた旅順港があるところ。天然の良港旅順港を取り巻くように旅順市街地があり、この市街地には病院を始めロシア極東海軍を支えるのに必要な倉庫や商店街がありその商店街を取り囲むようにロシア陸軍の要塞が築かれていた。
この要塞の構造に対する日本軍の認識が問題になります。日本海軍はこの要塞は清国時代のもので決して強固なものではないと見ていました。この要塞を取り巻くように小さな山脈がありその中に標高203mの高台が「二百三高地」です。ここを奪取しここに大砲を並べると旅順港に入っているロシア艦隊を砲撃で撃破することができますので、この地点は日露双方に取って戦略上の重要地点になるわけです。日本陸軍にここを攻略奪取を求めたのは日本海軍でした。
ロシアのバルチック艦隊が日本海に向かって航行しているというニュースが入ると日本海軍はロシアの旅順艦隊とバルチック艦隊の二つの艦隊に挟み撃ちにされとても勝てない、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を撃破したいという理由でした。これに対して、日本陸軍は203高地の隣の高台から砲撃すれば旅順艦隊を相当傷めることができると考えていました。事実陸軍が設置した28サンチ砲で砲撃し、旅順市内に放った中国人スパイの報告により「旅順艦隊に大勢の負傷者が出た」という情報を陸軍は持っていました。つまり陸軍と海軍のメンツを掛けた戦略論争になっていたのです。ここで海軍は明治天皇を取り込むことに成功し、御前会議で「203高地総攻撃」を決定させ天皇命令まで出させます。やむなく陸軍は総攻撃を繰り返し戦死者の山を築きます。陸軍と海軍を統率するのが大本営ですが、ここが総合判断できず陸軍と海軍の勢力争いの場となっていて最後天皇を味方にした方がかつという全く前近代的な政策決定構造になっていたため戦死者の山ができたわけです。つまり、無謀な突撃を繰り返していた訳です。
NHKの番組では半藤さんが出ていて陸軍が持っていた情報と海軍が持っていた情報に大きな違いがありその違いを冷静に調べなおすという観点の欠如が招いた悲劇と云っていました。情報処理能力の欠如が第二次世界大戦中も日本の最大の欠陥でした。
ここで思い出すのが例のインパール作戦です。兵隊に自分の食糧として米を背負わせ遠征を命じます。しかも、雨季に!です。兵隊たちは飯盒炊飯ができずみな栄養失調で全滅します。例の有名な「ビルマの竪琴」の舞台になった作戦です。乾パンやビスケットと缶詰をどうして用意しなかったのか。雨季でなくても、この林の中に日本軍が何人かくれているかはすぐわかったといいます。お昼になると飯盒炊飯を始めるので立ち上る煙の数を数えればすぐわかったと云います。オソマツというのも憚られるアホさ加減を終戦まで変えませんでした。日本の軍隊のこの病的非合理性は現在の政府省庁に残っています。情報分析に基づく合理的・総合的な判断が苦手なのです。すぐに勢力争いやメンツの問題にしてしまいます。
ここで日本人の優れた点も書きます。それは28サンチ砲です。サンチはフランス語でセンチのことのようです。つまり直径28センチの大きな砲弾を打つ大砲のことです。最初はフランスでつくられたようですが、203高地攻略に使われたのは純粋に国産。大きな砲弾を真横に飛ばそうとすると推進力に大きな力が必要になるから、放物線を描いて目的地に飛ばそうとした大砲です。目的基地までの距離を測り、それによって大砲の仰角を決めて打ち上げ、弾丸は放物線を描いて目的地に着弾し爆発します。この大砲によって203高地の要塞を破壊することに成功しましたし、旅順艦隊に大きなダメージを与えることができました。
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