かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

ちょっとした大仕事をしました。(その2)

2011-10-27 | 気ままなる日々の記録

例年なら12月中旬にする仕事、それは「裏の枝垂れ柳の剪定」ですが、今年は大木剪定の続きということで“ついでに枝垂れ柳もしよう!”という気になって始めました。

      

 例の如く梯子を登ったり降りたりして位置を決め、その後、梯子の上をロープでしっかり縛ってから作業開始です。
 
作業中、去年の出来事を思い出しました。この木を剪定していた時、通りかかった二人のお婆さんが道から何やら言っておられるので、そろそろ降りて「なんでしたか?」と聞けば、切り落とした枝を少し分けて欲しいと言われ、「ああ、全部でもどうぞ! 何にするんですか?」と聞けば、クリスマス用にフォレスト・リースを造りたいとのこと。大小いろいろな輪にして、造花で飾りつけ、内孫・外孫に渡したいのだそうです。「それは楽しみですね。はいはい、持ちやすいように荷造りしてあげましょう」と、腰からハサミを取り出し良さそうな枝をバシバシ切って、輪にしてあげました。「あのお婆さん、今年も取りに来られるかなあ」「でも、頼まれてもいないのに待つのも変だし」と迷うばかり。まあ、梯子も出して電源も引いて、準備してしまってから、「やるか、もしかしたら、お婆さんゴメンネ。」

      

 作業は「モクレン」より大分簡単です。落とした枝が屋根を壊す心配がないからです。最後は左手が掴まっていた枝が残りました。この枝垂れ柳は評判が悪く、元から切り倒して欲しいという意見もあって、どうしようか迷っています。

      

 左の写真の中央に写っている黄色い物体が愛用の「ハンディー・チエンソー」です。我が家には、この他に大型(両手で持つタイプ)のチエンソーもあります。つまり、こうした仕事が好きなのです。
 (写真の加工に失敗しました。近日中にやり直します。お許しください)

 (9月30日、写真の加工をやり直しました。最後の写真だけもとのままです)

 


チョットした大仕事をしました。

2011-10-18 | 気ままなる日々の記録

 ここ数日、秋満喫の晴天続き、菜園の仕事も一段落で、思い切って懸案の仕事に着手しました。それは庭のモクレン(「コブシ」との説もあります)の剪定です。樹齢80年でしょうか。この木は、昭和初年、私の祖父が故郷に帰り、農作業用の倉庫を新築した時、その倉庫の前に日除け用に植えた木と聞いています。かれこれ40年ほど前には、この木の横枝にロープを下げ、子どもたちにブランコをつくってやった木です。
 その木が毎年大きくなり、うっかりしていると屋根を壊すほど大きくなりました。そこで最近では数年おきに丸坊主にしているのですが、昨年あたりが“切り年(どし)”でした。だから、今年はどうしても切らなければならない年でした。写真、右側は昨年11月に撮影したもの、左側は、作業終了時に撮影したものです。

     

 この作業の難点は二つです。第一は足場の悪さで、第二点は、決して屋根傷めないことです。用心深く作業手順を考え、掛けた梯子(はしご)は必ず上部をロープで木に縛りつけます。まず屋根と反対側に張り出した枝を下から切り落とし、落ちた枝を片づけ脚立を移動させながら、次の枝を落とす、目指すは「丸坊主」!

     

 決して急ぎません。脚立を登ったり降りたり、少し揺らしたりして足場の状態を確認したりして、一枝ずつ落として行きました。大切なことは、木に登った時に左手で捕まる枝を残しておくことです。少し太い枝は落ちるとき、切り口が跳ね上がったりします。そんなときはバランスを崩しやすく、うっかりすると墜落します。登山で言う三点確保、つまり両足と左手が重要です。

     

 最後に残った数本は、まっすぐに上に延びていて太さもかなりのものです。横に張り出した枝は小刻みに細分しながら切り落としましたが、まっすぐ上に延びた枝は、小刻みにすることさえできません。そこでロープをかけ、決して屋根の方へ倒れないようにし、さらに落ちつ方向も指定できるように工夫しました。ゆっくり切り進み、倒れる寸前に手をかけて落ちる方向をリードします。うまくいったときの達成感は、とても言葉ではあらわせません。

      

 再度「丸坊主」になった木と、下に積み上げられた切り枝です。この枝の片づけに、明日一日かかるでしょう。明日も充実した一日になりそうです。家人は「危ないから、庭師さんに頼みなさい」と言いますが、私は「こんな楽しい仕事を、人に任せてはモッタイナイ!」といっています。

 しかし、庭師さんに頼んだ方が、日本経済のためにはプラスになるでしょう。何しろ、お金が動いて、消費が所得を産み、GDPを押し上げるのですから。でも、お金が動かなくても、役に立ち楽しい仕事したら本人も社会も幸せになるのだから、GDPだけで経済を語る経済学の方が間違っているのじゃない? という気もします。ああ、何とも、むずかしいところです。

 10月18日に投稿した原稿を、今日(10月23日)大幅に修正しました。修正箇所はすべての写真です。
このブログを閲覧頂いた人からメールが入り「空に向けて撮った写真には、縁取りを付けないと写真が引き立たちません。縁取りの入れ方は以下の通り」と懇切丁寧に手順まで書いていただきました。《新しいテクニックの学習でした!》 かくしてすべての写真を入れ替えました。

 


和倉温泉へ行って来ました(その2)

2011-10-10 | 気ままなる日々の記録

 翌日の出発は朝9時。例のごとく土産物店を始め、いろいろな所を巡りましたが、ここでは3ヶ所について報告します。最初は、能登金剛クルーズ。地形的に、冬季、北西の寒波・強風に煽られて押し寄せる日本海の荒波に削られて出来あがった奇岩・洞穴を、観光船に乗って観賞しようというコース。この観光船は風が強いとすぐ休航になると聞いていましたが、幸い好天に恵まれ20分のクルーズを楽しみました。

     

     

 10日ほど前、北朝鮮からの脱北船が漂着したのがこの付近(金沢港に曳航されました)でありました。このことから分かるように、日本の古代史にとっては、このあたりは先進文化の表玄関でした。能登半島の「能登」の語源はアイヌ語の「ノット」だそうで、アイヌ語で「ノット」は鼻という意味、つまり海に突き出た半島が、アイヌ人には「陸地の鼻」に思えたのだろう、とのことでありました。その上、この付近には、かつてアイヌの人々が住んでいたことも分かっているようです。荒れる日本海と壮絶な人々の戦い、その間隙に漂着物や漂流民が混じり、その小さな幸運が新しい歴史の扉を開いたであろうドラマに、思いを巡らせた20分でした。

 

     

 次に訪れたのが「能登の一宮(いちのみや)、気多大社」でした。失礼ながら、こんな僻地には珍しい風格のある神社で、その上“能登の一宮”と聞いて、少し驚きました。一宮の所在地はどこも大きな街になっていると思っていましたから。
 このお宮のご祭神は「大国主命」で、出雲から船でこの地の来られ国を拓かれたと伝えられています。また、ご神体は「入ずの森」で、その神域にはこの1000年間刃物を持って入っていない、つまり正真正銘の原生林がご神体であるとのことでした。私はこの「ご神体」に興味を覚えました。自然崇拝の極致です。社務所で驚いたのは、この神社の「由緒」書きが日本語、英語、韓国語、中国語、台湾語の5重類あったことです。そのうち日・英・中の3種類を貰ってきました。英語版を見て驚きました。何とこの神社の名前は「けた(Keta)たいしゃ」でした。(スキャンがうまくいかず、映像不鮮明ゴメンナサイ)

         

        

 万葉集には越中守大伴家持がこの地に巡行したときに詠んだ歌が残されています。また、昭和58年、天皇がこの地に行幸。それを機会にここより800mほど離れた場所にある遺跡を発掘調査したところ、縄文前期からの大集落遺跡が発見されたとのことです。縄文遺跡と一宮、やはり関係があるのでしょうか。古代ロマンです。
「気多大社(けたたいしゃ)」のホーム・ページもお勧めです。

 最後は千里浜ドライヴウエイ出口付近に作られていたサウンド・アート。前日は快晴で、紺碧の海に白い波線が美しい千里浜でしたが、この日は間もなく雨、眼前には寒々とした冬の日本海が顔をだしていました。 


能登半島の和倉温泉へ行って来ました。

2011-10-06 | 気ままなる日々の記録

 平成17年、私はチョットした地域の仕事を引き受けていました。私の住む地域は、昭和30年、4ヵ町村が合併して誕生した市で、当時は「人口3万の市」と揶揄されていました。あれから50年以上過ぎていますが、今もなお合併前の「町」の繋がりが強く、私と同じ年に同じ仕事を引き受けていた旧町内の9人が集まって、同窓会のように毎年旅行に出かけています。昨年は山陰のハワイと鳥取砂丘、今年は1泊2日の和倉温泉でした。この旅の報告を2回に分けて行います。
 最初に紹介したいのが、羽咋(はぐい)市にある『コスモアイル羽咋』です。この博物館はアメリカのNASA特別協力施設だそうで、宇宙開発初期の各種機材がソ連のものも含めて展示してありました。そして、この博物館の魅力の一つが学芸員による懇切丁寧な説明でした。 

  

 上の写真が宇宙服。重さが80キロだそうですが、月面では重力が6分の1だから13.3キロほどに感じ、体重も軽くなるので重圧感はないとのこと。背負っているのは電池で、ここからの電力ですべてをコントロールしているそうです。一番下の下着の中を血管のように温水が流れて体温を保ち、その上の下着が密閉していて気圧を保ち、その上の衣類で断熱保温、その上の衣類で紫外線をカットしているとのこと。さらに興味深かったのは顔面を覆うガラスに金(ゴールド)のコーティングがしてあるということで、月面では紫外線が強く普通のガラスでは5分で網膜がやられて失明してしまう。中から外は見えるが外からの紫外線が中に入らないようにするには金のコーティングが最良だそうです。もう一つ、面白かったのは、宇宙飛行士が月面で自由に腕時計を見えるようにする工夫。もちろん飛行士はケネディー宇宙センターと自由に交信できるので、時間は聞けるのだがるのだが、それでももっと気楽に腕時計が見たくなるだろう。ところが腕がよく曲がらないし顔も下を向けないので時計が見えない。そこで考えられたのが右腕の腕時計を左腕の鏡に映し、その鏡を見て時間を知るという方法だそうです。だから宇宙飛行士がはめていた腕時計は文字盤が全部鏡文字だそうです。

   

 右が「マーキュリー宇宙カプセル」と呼ばれる米国製一人乗用のカプセルで、初めての有人飛行用宇宙船です。見てすぐ分かるように大陸間弾道ミサイルを改良したもので、乗り心地は最悪、決死の飛行でした。左はソ連製月面探査機で、実際に月の砂を採取して地球へ持ち帰ったそうです。その他、宇宙好きの人には見逃せない展示物がたくさんありました。

          

 泊まったホテルは「のと楽」、能登島に渡る美しい橋が眼下に見える好立地、ホテル専用の桟橋では地元の人がイイダコを釣っていました。