かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

豊穣の麦秋

2011-06-27 | 気ままなる日々の記録

 今日は降水確率が40%とかで畑仕事は延期、終日読書(武田邦彦著『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』産経新聞出版)とパソコン。過日友人に誘われて武田先生の講演を聞きに行ったことがあります。この書名は軽々しくて好みではありませんが、先生の講演はなかなか聴きごたえのあるものでしたから、つい購入した本です。

 「麦秋(ばくしゅう)」とは俳句の季語にもなっている言葉で、麦を収穫する季節、つまり初夏のことです。蒸し暑いイメージをあえて避け、収穫の喜びを込めた表現になっていると思います。私もこの季語にあやかって我が菜園の恵みに感謝しながら、このHPをアップします。上の写真は庭の隅のプラム(大石早生)。4月に「フクロミ病」が大発生し、今年もダメかと落胆していましたが、多くの幼果が病に打ち勝って実をつけてくれました。完熟を待って収穫し、少し冷やして食すれば素朴な味わいに、ご先祖様(江戸時代の農家)の喜びが体感できます。

 梅も今年は豊作です。私の好みで、実が少し黄色みを帯び触れただけで落ちそうになったころ収穫し、家内に低塩で漬けて貰います。こうすれば、果肉が軟らかく、ご飯のお供に最高の一品になります。

 ジャガイモも、近年にない豊作でした。理由は苗芋の植え付けを、師匠の御指導通り忠実に実行したことです。種芋の切り分けに若干不手際があり、当初、苗の成長に不揃いが見られましたが、ひ弱な苗も見事に追いついてくれました。

 トウモロコシも間もなく収穫です。これも不行き届きのある播種でしたが、大自然の恵みは、稚拙な作り手を励ますように、困難を乗り越えてくれます。ここまでの作物は私の担当。

 次の写真は家内の丹精によるもので、とくに、一夜の内に葉を葉脈だけにしていまう「ウリバイ」という害虫との戦いが壮絶でした。でも植物の生命力と、朝夕捕虫網(タモ)でウリバイを追っかけ、近所の子どもに「おばさん、チョウチョを取ってるの?」と聞かれたほどの執念が勝利し、可愛い実をつけてくれました。その名は「アリスメロン」

 蒸し暑い日が続きますが、これも大自然の恵みと、ちょっと無理しながらも、感謝しています。


「思い出の先取り……?」

2011-06-22 | 気ままなる日々の記録

 久しぶりの晴天で、朝から満を持して、休耕地への除草薬散布に出かけました。気象情報の予想通り気温はぐんぐん上がり、作業が終わった午前11時30分頃には30度を超えていました。

 こんな時、私は淡々と作業をしながら、四次元空間に遊びます。こう書くと大袈裟ですが、つまりは夢遊病者になるというか、夢幻能の世界に迷い込むというか、一瞬のうちに30年前の自分に戻って母と会話をしたり、友人と登った3000m級の山頂で乾杯したりするのです。作業の折り目ですぐに現実に戻って次の作業に移ったりもしますが、作業が単調な繰り返しになるとすぐにまた前の世界に戻ります。こんなふうに四次元空間で遊ぶ楽しさを味わうことができるようになったのも、年を取ったお陰です。下の写真は、今日除草薬を散布した休耕地で5アールほどの広さがあります。散布を怠るとあっという間に雑草は背丈ほどの高さになってしまいます。

 

 今日迷い込んだ世界は、10年も前に見たテレビの映像から始まる夢遊の世界でした。その映像はある著名な女流作家(?)の訃報に関するもので、偶然、亡くなる3ヶ月ほど前に、闘病中の彼女をインタビューときのVTRがあるとかで、それを流していました。

 背を起こしたベッドに、痩せ細ってはいるがとても上品な老婦人が横たわっていました。でも、インタビュアーの質問には奇麗な言葉ではきはきと答えておられました。私の印象に深く刻み込まれている彼女の言葉は、「今、こうして昔の写真を見ていますと、幼かった子どもたちが、どの写真を見てもきちんとアイロンのかかった服装をしていますの。あの頃の私はお金もなくて、とても忙しくしていましたのよ。でも一途に頑張って、子どもたちには洗濯とアイロンの行き届いたものを着せていました。今こうして見ていると、とても感じがよくて何だか誇らしく思えますの」。こう話したときの彼女の笑顔と訃報が重なって、このとき私は強い衝撃を受けたことを覚えています。

 50代になったころの私は、理屈と愚痴の多い若い人たちに「諸君の言い分はよく分かった。僕も頭に叩き込んでおく。しかし、君たちなア~、3年後の自分が3年前の自分を振り返って、あの頃俺はこんな仕事をしたと誇れる仕事を今しているか、そういう視点も持って欲しいんだ。僕はこれを名付けて“思い出を先取りする視点”と言っておる。僕は君たちのそうした仕事を見ているんだ!」と激を飛ばしていました。偉そうなことを言っていたものです。いま思えば「冷や汗&汗顔」で、そんなことを思い出した今日の私は、まさに汗だらけの顔でした。二十数年前のあの頃は、まだ職場の人間関係が熱く、会議だ、要求だ、交渉だと、何かにつけて人々が集まりよく議論していました。でも、側聞によると、いまある会議ほとんどが「打ち合わせ会」だけで、皆が事務的で冷めていて自分の担当分野だけに気を配り、あとのことはしらないよ、という感じだそうです。だから今の時代なら私も偉そうなことをいうこともなかったと思われますが、それが、職場にとってもそこで働く人々にとっても、良いことなのか悪いことなのか分かりません。

 下の写真右は除草薬散布に使う我が愛機「ポータブル動墳セット、ビッグエム」君(強制空冷2サイクル22.5CCエンジン付き)です。左は収穫が楽しみな我が菜園のトマトです。

                

 自分を振り返って「……、とても感じがよくて何だか誇らしく思えますの」と言える何かがあるだろうか。少なくとも自然にこんな言葉がでてくる思い出は一つもありません。


熊野古道(伊勢路)へ行ってきました(その3)。

2011-06-14 | 

 熊野古道(伊勢路)への旅の報告の最終回として、今回は古事記に書かれている2地点と景勝「鬼ヶ城」を紹介します。最初は神武天皇上陸碑跡。高天原(神の国)から九州の高千穂の峰に天下ったニニギノミコトの子孫で東征を開始した神武天皇は、最初大阪湾あたりで賊に敗れ、急遽和歌山県沖を南下、潮岬を回ってこの地に上陸したといいます。上の写真は観光案内図。私たちは釣り船をチャーターして、海路からこの地点を訪ねました。

 上陸地点とされているところは、熊野灘の荒波が岩を噛む急峻な断崖の上にあり、太古の丸木舟では危険極まりない上陸となったと思われるが、そこは神様のこと、やすやすと上陸されたに違いない。でも待てよ。神武天皇は神様であったとしても、少なくとも200~300人いたと思われる部下たちが全員神様であったとは考えにくい。部下たちは天皇を敬い天皇に従った原住民、つまりは私たちの祖先ではなかったか。こう考えると、神は上陸の時だけ波を静めたに違いないと、夢は膨らむ。いずれにせよ天皇の一行は賊を征服しながら熊野川を北上して飛鳥の地に着き即位したことになっている。黄金に輝く八咫(やた)烏が天皇の弓の先に止まり、賊の目が眩み天皇側が大勝するのもこの途中のことであった。

 ここに祀られている神様はイザナミノ命。この神様は神武天皇よりももっと古い神代の時代、始めて男女の神が現れたときの女神様。このご夫妻は淡路島を始め、多くの陸地や神々、さらには動植物をお産みになった。しかし、最後に火の神様をお産みになったとき、大変な火傷を負われ、ついに亡くなってしまわれた。それからいろいろ神話は続きますが、その女神がここに祀られていました。

 ここは神話に時代ではなく、記録が残されている時代。先ずは海賊どもの隠れ家。続いて信仰の場となり観光の場となったって現在に至る。月並みな表現で恐縮だが、全てが自然の浪と風と岩が創り上げた巨大な芸術作品だ。チリ沖地震の津波によって遊歩道の一部が破壊され「通行止め」となっていました。

 順不同の上、舌足らずで拙い報告をここまで読んで頂きありがとうございました。これで熊野古道報告を終わります。

 


熊野古道(伊勢路)へ行ってきました(その2)

2011-06-06 | 気ままなる日々の記録

 今回は「古道の風情」を中心に報告します。

     

 苔むした山間の道、石段もすべて不揃いな自然石で歴史を感じさせます。しかしすべてが古道で繋がっている訳ではなく所々途絶えて旧道になっている部分もあります。私たちは旧道は車で走り、有名な古道を選んで歩きました。

    

 風雪にさいなまれた石仏。その周辺はきれいに掃き清められ、新しい花が手向けられていました。近くの集落に住む人たちの手によるものと思われますが、もしお年寄りたちの手によるものとすれば、ここまで登ってくるだけでも大変な労力だと思われ、胸が熱くなりました。世界遺産登録の前後でしょうか、国土交通省による案内版が設置されていました。

    

 途中「徐福」を祀る神社に寄りました。「徐福(じょふく)」というのは中国の歴史書『史記』にでてくる人物で、秦の始皇帝の命を受け「不老不死」の霊薬を探しに東方へ船出した、という人です。史記によれば、船には3,000人の技術者が乗り、膨大な食糧と五穀の種を積み込んだというのです。ところで、その霊薬は見つかったでしょうか、史記によると、旅先で広い平野と湿地を得て、そこの王となって帰国しなかったとのこと。ここから先はいろいろで、旅先で始皇帝の死を知り失意のうちに帰国を断念したという徐福善人説から、始皇帝を騙して3,000人の部下と膨大な食糧を奪った詐欺師説まで諸説満開。その徐福がこの地に住み、ここで亡くなったということで建てられたのがこの神社です。

 実は、「東方だから日本に違いない」ということで、北は青森県から南は鹿児島県まで徐福に関する伝承は各地に残されていて、その一つがここ熊野の地というわけです。史実はどうかということよりも、その地の人々がその伝承を信じて1000年以上にわたり神社を護ってきたということに私は興味を感じました。

    

 熊野古道は、海岸線沿いにも延々と続きます。上の写真は古道の一部で、那智黒石がとれる浜辺です。私はここで自分への記念品として黒光りのする小石3個拾ってポケットに入れました。ここでは夏に全国的に有名な海上花火大会が開かれるそうで、左の階段は見物者用の座席も兼ねていると聞きました。