かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

縁あって、宮田神明町公民館へ行って来ました。

2011-11-29 | 気ままなる日々の記録

 11月26日、江南市宮田神明町公民館へ行って来ました。ここで、宮田神明町有志住民の手に寄る郷土史研究会の第一回講演会があったからです。研究会の正式名称は「壬申の乱を勉強する会 神明実行委員会」。

 会発足のきっかけは、江南市在住の倉橋寛氏が小説「赤き奔河(ほんが)の如く」を出版されたこと。この小説の主人公が、壬申の乱で活躍した村国男依(むらくにのおより:『日本書紀』に登場)で、彼の出身地が江南市の川向うの各務原市で、その上神明町の隣の村久野(むらくの)町は村国からきた名前ではないかということから、謎とロマンに富んだ郷土史を研究しようと有志が立ちあがったのだそうです。聞くところによると、この会に結集した有志は、すでに「飛鳥;明日香」への研究旅行も実施されたとか、素晴らしいことです。

 この講演会は中日新聞や尾北ホーム・ニュースでも報道されました。下の写真は11月19日の中日新聞です。

 

 

 下の写真は「尾北ホーム・ニュース」のイベント欄で、当日の朝の報道ということになります。

 

下の写真は、世話人の人たちが用意したもので、何と回覧板で全世帯に回したのだそうです。ここでは「区長」と呼ばれている町内会長さんも、この研究会の世話人に入っておられて、心強い限りです。これはもう、この地区に備わった力だといっていいでしょう。

 

下の写真が「講演会風景」です。後でお聞きしたところ参加者は80名、参加者の住所も、一宮、稲沢、岩倉を始め江南市全域に及んでいたそうです。世話人の人たちはてんてこ舞い。椅子・机の増設から受付け場所の移動など嬉しい悲鳴だったそうです。新聞報道の力が如何に大きいか、ということも考えられますが、私はそれよりも、第二の人生に入った人たちの向学心や郷土愛の強さに感動し、私も学ばねばならないと思いました。

 講演会は大成功! 終わって質問を受け付けられた時もいい質問がたくさん出され、全員が時間のたつのも忘れて質疑応答に耳を傾けていました。

 聴いていて一番感銘が深かったのは『ふるさと宮田の神と仏とその祭り』の編集委員(実質は編集長&主筆)の熊沢氏のお話であったと思われます。現在84歳であられるのに旺盛な探究心と地道な努力。それらを老後の生き方の問題として捉え、淡々とお話しになりました。参加者全員の琴線に触れる励ましであり指針になったと思われます。

 小説の作者である倉橋氏は、実は、漫画家でもあり「中日スポーツ」や「尾北ホーム・ニュース」に漫画を連載されています。

 ここに「尾北ホーム・ニュース」に掲載されている倉橋さんの漫画を転載しておきます。

 倉橋さんの講演も、よく慣れておられる感じでホワイト・ボードを巧みに使い、少しトボケたりしてゆっくりと話されました。欲を言えば、「壬申の乱」当時の全国的な政治状況や国際状況に触れて頂けるとか、小説を書く上で苦労されたところとか、配慮された事項をお話しいただけるともっとよかったかと思われます。

 大野さんのお話は、一応、レジュメを用意され、それなりの論旨は決めておられたようでしたが、大勢の高齢者を前にいわゆる「上がってしまわれた」のか、話があちこちに飛び、説明と結論が前後逆になったりして、聞きづらい講演でした。

 それでも、全体としては好評で、世話人の方々もご満足の様子でした。こうした研究会が育つというこの圧倒的な逞しさに心から声援を送りたいと思いました。

 

 


岩手県の花巻温泉に来ています。(3)

2011-11-23 | 気ままなる日々の記録

 今日のコンセプトは「花巻市と仲良くなろう!」。つまり、歩いたり、バスに乗ったり、行きずりの人と話したりしようというわけ。どこへ行こうかということで迷いましたが「宮沢賢治資料館」ではあまりにもおざなりだと考えて、高村光太郎と南花巻温泉(立ち寄り湯可)を探索することにしました。

 岩手の風景はどこを切り取ってもやさしくて“ふるさと”そのもの。高村光太郎が戦後6年間農耕に励みながら過ごしたという居遇近くの風景です。

 市の経営か民間経営か不明ですが、おばさんが一人いて、丁重に出迎えて下さった。つまりここを訪ねる客は珍しいということ。おおむね岩手の人は話し好きで丁重だ。何処から来たか、寒くないか、こちらは一昨日雪が降った、などという話題を、少しなまって話しかけてくださる。この心配りにこちらの心が温まる。

 続いて「花巻歴史民俗資料館」を訪れた。率直に言って建物は立派だったが中身はお粗末。景気刺激策としての政府補助金による「箱もの」なのだろう。ここでも丁重なお出迎えを受け、大いに雑談を楽しみました。

 続いて訪ねたのが「南花巻温泉」。こちらは歴史が新しく、露天風呂も趣向をこらしてあるとか。何と立ち寄り湯と昼食を楽しもうという趣旨。今日は「勤労感謝の日」。近郷近在の家族連れが、昼食と立ち寄り湯を楽しみに来ていたのには驚いた。祖父母と孫という組み合わせが圧倒的に多く、ついで「祖父母+両親+孫」であった。ここでは尾張地方以上に「ホテル+立ち寄り湯+少し上等の昼食」がハレの日の定番になっているようだ。

 バスに乗ってJR花巻駅に出て、駅付近を探索、またバスに乗って宿「ホテル紅葉」に戻りました。

 写真はJR花巻駅前の風景。駅前のモニュメントが風力発電を思わせる何本ものステンレス製風車。中央に宮沢賢治の詩が書いてあって、ここで宇宙の音を聴くのだそうだが、それ以前に駅前に人がいない。そして、もう食堂も居酒屋ない。いろいろ考えさせられた。


岩手県の花巻に来ています。(2)

2011-11-22 | 気ままなる日々の記録

 花巻二日目、朝起きたら白銀の世界でした。こうした季節の時間差は一層旅情を誘います。温泉のお陰で熟睡の後の目覚め、朝からルンルン気分でシャッター切ったりしました。

 今回の旅も衝動の産物、10日ほど前、突然新聞広告に目が止まりました。花巻温泉三連泊、往復飛行機で、その上県立名古屋空港での駐車料金もこみで四万円、さらに魅力的なのがオール・フリーで添乗員もなし。最後の日の夕食がついていないのも粋な計らいだ。「足と宿だけ団体割引適用のクーポン(クラブ・ツーリズム発売)をお世話します」というコンセプト。これいいね!、ほんとね! で一決。すぐに申し込んだという次第です。後日、FDA(富士ドリームエアライン)で調べてみたら、片道で15,000円でした。季節割引も始まったのでしょう。

 

 昨日の写真もこの写真も宿の庭を撮ったものです。紅葉の上に雪が積もるという風情は岩手ならではの趣です。

 朝食を終わってゆったりと「花巻トヨタ・レンタカー店」へ。宿から店までのタクシー料金は店が持つとのこと。予約はプリウス1800㏄(1500㏄は在庫なし)9時間。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、モンゴルとレンタカーを愛用した私としては恐れるものは何ありませんが、プリウスのフロント変化のは戸惑いました。一応の説明は聞きましたが、プッシュ式ボタンがやたら多いのに驚きました。まあ何とかなるさ、という気分でスタート。東北自動車道は混んでいないので助かります。

 

 

 

 

 

 カーナビの助けを借りて、順調に中尊寺到着。紅葉の美しさに圧倒されました。紅葉の美しさは、豊かな栄養に支えられた豊満な葉と、昼夜寒暖差の大きさによる、と聞いたことがありますが、中尊寺のモミジはどちらも満点だったに違いない。金色堂の阿弥陀仏には感動しましたが、もちろん「撮影禁止」。後日、購入した写真集からスキャンして紹介します。

 続いて向ったのが毛越寺(もうつうじ)。戦乱で焼失とのことで残念でならないが、思えば、当時の寺は戦時には一方の側の出城。負けた方の寺は焼き払われる運命にありました。そうだからといって、お寺が中立を守ることは不可能で、政治権力の保護なくして寺の存立はありえなかったという現実がありました。

 帰りに、街の電気店に寄ってランケーブル延長コードを買って、スタンドで満タンにしました。追加ガソリンは5リットル弱、あれだけ走って5リットル? と改めて燃費の良さに驚嘆。さらに、トヨタレンタル店で車を呼んでもらったら宿までのタクシーチケットを渡された。つまり宿往復のタクシー料金はレンタ店持ち(片道2,100円)にも驚きました。車の中で運転手と雑談、聞けば震災特需で隠れた好景気に沸いているのがレンタカー業界だそうで、車を流されてしまった人たちが必要に迫られ利用するのだそうで、一週間、一ヵ月の利用も多いそうです。

 いい旅をしています。またボツボツ報告します。

 


岩手県の花巻温泉に来ています。(1)

2011-11-21 | 気ままなる日々の記録

先ほど宿に着き、一息いれたところです。旅先でブログを書くのは初体験です。

 実は河口湖で書きましたが、あの時は“息子”という強力な助っ人がいましたから何も心配していませんでした。下呂にはパソコンを持参しましたがネット接続に失敗しました。ホテルでは「ロビーでネットは可能で皆さんお仕事をしておられます」とのことであったが、私のパソコンはエラーが出て繋がらず、フロントで聞いても「わからない」ということでした。(フロントマンは、年寄りで私同様ITダメ男のようでした)

花巻のこのホテルは進んでいて、テレビの後ろから出ているケーブルをパソコンにさすだけでOK。そういえば、このホテルの玄関には大きな歓迎看板がでていたが、それが中国語でした。世界遺産登録で国際化し、ネット環境も整ったのだろう。

花巻は現在雪。紅葉が雪化粧をして私たちを歓迎してくれました。これから露天風呂へ行きます。露天風呂に合うのはやはり雪ですよね。明日のレンタカーの予約も完了しました。

 


奥三河松平郷へ行って来ました。

2011-11-19 | 気ままなる日々の記録

11月8日、所属する「山歩きの会」の今年最後の行事として奥三河の松平郷へ行って来ました。

 主な目的地は2つ。第一は「王滝渓谷」の散策、第二が江戸幕府将軍徳川家発祥の地松平郷の訪問と松平東照宮参拝。この地はいづれも平成の町村合併で豊田市とり、旧世代のわれわれの頭は混乱するばかりであった。

      

      

 東名高速道路豊田JCで東海環状自動車道に乗り換え、豊田東ICで一般道に出て県道岡崎足助線を北上、王滝町で右折、案内板に従って王滝渓谷へ入った。このあたりは巴川の支流仁王川流域で、宮川散策道、王滝湖園地バーベキュー場、歌石園地など市民の公園としてよく整備されていた。我々が歩いたのは宮川散策道で、駐車場からの往復も加えて十分な運動量であった。写真下段右の標識は「奇岩の宮川散策道」とあります。

       

次に向ったのが「松平東照宮」。好奇心に富んだ我がメンバーは、こうした所へ来るとう動かなくなってしまいます。穴の見れば心いくまで覗き込み、文字を見ると全部読もうとするからです。まあ時間にゆとりもあるということで幹事も自由にさせてくれました。この様子をじーっと見ていた人がいました。それは社務所で受付をしていた宮司さん。彼も暇だったのでしょう。ついに出てきて我々に声をかけて来ました。「よろしかったら、ちょっと説明しますし、質問があったらどうぞ」ときた。もちろん我々も大歓迎で、それから1時間近く“青空教室”が開かれました。ここでは興味深かった2~3の話題を報告します。

①こんな山奥の貧しいところが徳川発祥の地とは信じられない、という質問をよく受けますがそれは間違いです。室町時代、田畑があったのはこうした山間部の谷川沿いで、ここでこそ稲作が可能で、このあたりが最も豊かな地域でした。名古屋・一宮あたりは年に数回の洪水にやられて稲作はムリ、葦が生えキツネや野ウサギが駆け回っていました。

②室町時代の中期、この松平郷に一人の修行僧が現れ、その僧が郷氏の娘と恋に落ち、養子に入った。この養子が世情に詳しく文武に優れ、周辺の豪族を配下に従え、松平郷をどんどん大きくした。これが徳川の先祖で、この修行僧は東北地方から来た人と言われている。理由は、近くの山を「六所山」と名づけここに「六所神社」をお祀りした。「六所神社」は東北ににある。

③家康は、実は、松平家一統から見れば分家の出で、本家は松平家代表権を一時この分家に預けていたのです。というのも、戦の時の本家は一統の名誉をかけて先陣務め、その結果当主が戦死したり重傷を負ったりし、その都度、年端もいかない子どもが後を継いだり養子をとったりしていたからです。領民もそれを受け入れ多くの戦死者を出しながら本家を支えた、それが三河人である。

④三河人気質は尾張人とは全然違う。人情に厚く、義理を重んじ、質素倹約を旨としながらも主君やお祝いごとのためには全財産をも平気で投げ出す、この気質が徳川幕府支え、三河職人を通して全国に広がった。

⑤三河松平は、僅か400石でありながら、徳川御本家として江戸城大広間での参内を許され、将軍の御目通りも叶った。しかし、御本家当主の江戸参内はお金がかかる。その時期になると当主の体調不良を訴えて江戸行を延期していたが、数年に一度は沢山手土産をもって挨拶に出かけていた。領民もそれを承知で納税に励み、徳川本家を誇りにしていた。これぞ「三河人気質」とのこと。などなどであった。

 

 


紅葉探索に出かけました -ウヒヒとトホホー (その3)

2011-11-19 | 気ままなる日々の記録

紅葉探索の最終回として、初日の高山市内と最終日の国道158号線の様子を報告します。両日ともにウヒヒの旅でした。先ずは初日の高山市内。

 私たちはちょくちょく奥飛騨の温泉郷(新穂高・新平湯・平湯等)に出かけます。そんな折の帰りには高山市内の散策を楽しみますが、近ごろは上三之町(“かみさんの町”が転じて“おかみさんの町”と呼ばれて観光客が多い通り)を避けて、少し奥の旧市街を散策します。この辺は観光客も少なく、落ち着いた雰囲気を楽しませてくれます。

ご覧の通り、この朝市通りは飛騨川沿いですが、この河川敷に遊歩道が整備されていてその散策も絶品です。

次は、最後の日に通った国道158号線。この道は、下呂から41号線を15分ほど北上して左折、飛騨清見へ抜ける間道ですが立派な国道。でも集落や尾根の先端に入ると突然道幅が狭くなって徐行しなければならない個所も何箇所かありました。

 観光客は殆どゼロ。仕事上の車が時々通るのみ。静寂と涼風の中、石に腰を下ろして心の窓を開けると、頭の中のよどんだ空気が外に流れて、清々しい気分に満たされ、思い切りの深呼吸をすることになります。そして数年前話題になった「葉っぱのブレイディー」でしたか、木の葉が主人公の絵本で、若芽から落葉までの日々を物語った、その一節一節が思い出されたものでした。

 

 


紅葉探索に出かけました ーウヒヒとトホホー (その2)

2011-11-11 | 気ままなる日々の記録

巌立(がんだて)から濁河(にごりご)温泉に向かいました。濁河温泉は御嶽山の麓にある「秘境の湯」という感じの名湯です。暫く雑木林の中を走ると、やがて山腹をつづら折りに巡る山道に出て、御嶽山を右手に見ながら走りました。

 写真中央の雲に隠れたあたりが御嶽山の頂上です。この道は30数年前の冬にも走っています。冬休みに入るとすぐ、友人の家族と車3台を連ねてスキーに来たのですが、予定のスキー場に雪がなく、急遽行き先を濁河スキー場に切り替えて、この道を走りました。乗っていた車は「パブリカ800」、車の屋根にキャリーをつけて子ども用の板も並べ、タイヤにチエンを巻いて走りました。今、思い出しますとゾッとするほどの冒険です。小坂から50キロほどで、晴天に恵まれ絶好の景色を見ながらのドライブでも、現在は少し遠いと思いますのに、あのときは少しも遠いと思いませんでしたし、危険とも思いませんでした。友人と一緒であったということと、若かったということの性でしょう。でも、もし今、子どもたちが孫を連れて冬にここを走るといったら「やめておけ!」と心から言うでしょう。

      

      

下右の写真は「濁河まで14km」の標識です。このあたりは全山国有林だそうで、管理しているのは「林野庁」です。下左の写真はこのコース唯一つの展望台で御嶽山の写真もここから撮ったものです。「あずまや」の横に見える案内板を拡大したものが上右の写真です。

 12時半ごろやっと到着。昼食はこのホテルを予定していました。しかし、着いた瞬間に「休館か?」と思われる寂しさ! それでもドアーを押して入ると、係の人が出てきて「しばらく、宿泊客はお受けしていますが、昼間は営業していません」とのこと。ガア~ン! ネットで調べた時は、町営の露天風呂も含めてすべて営業中と出ていました。確かに宿泊は受け付けているので営業中と言える。係の人の話では「上の方の旅館で蕎麦ぐらいを出してくれるところがあるかもしれません」とのことで、上まで行ったのですがどこも「休み」でした。だって、お客がいないのだから無理もありません。“トホホ”とは正にこのこと。

 《「パブリカ800」で来た時も宿泊は旅館御岳でした。長い階段を降りて行ったところが温泉だったことを覚えています。それから、ここのトイレは、谷川に張り出したところに設(しつら)えられていて、落し物が風に舞いながら落下して、激流の中に消えたことも覚えています。当時は、どこの家庭もトイレは汲み取り式で、やっとバキュームカーが来てくれるようになった時代でしたが、こんな山の中にバキュームカーが来るはずもなく、本当の水洗式だったというわけです》

 昼食は断念して、町営露天風呂には入りました。標高1,800m、天気晴朗にして微風心地よく気分は最高でした。

     

 写真右が「濁河温泉町営露天風呂、入浴料大人500円」の浴槽です。風呂からあがるとにわかに空腹を感じ、町営露天風呂のカウンターに置いてあった菓子を一袋買って分けて食べました。

 帰りに、どこか喫茶店に入ってサンドイッチぐらい食べようと思いましたが、国道41号線は喫茶店がありません。思えば、喫茶店なんかに入る暇な人は、このあたりにはいないのです。ついに下呂まで戻ってしまい、水明館でお茶、ということにしました。写真左の庭を見ながら「お紅茶にケーキセット」を召しあがった助手席の人は、やっとご機嫌をなおし「いいドライブだったわ」とおっしゃった。

 

 


紅葉探索に出かけました。- ウヒヒ と トホホ -

2011-11-06 | 気ままなる日々の記録

 急に何処かへ出かけたくなりました。耐震工事が遅れ、その上、職人さんの日程が知らされず、ぶつぶつ言いながらも長いあいだ家を空けないようにしていたことや、庭仕事・畑仕事が一段落した性です。こうなると一瀉千里が私の性格。ネットで宿を予約し、翌々日(11月1日)には出発しました。目的地は高山市内・厳立峡・濁河温泉・国道257号線(紅葉街道)など、宿は下呂温泉のホテルに連泊としました。
 この旅の報告を2回に分けて投稿します。第1回は二日目の訪れた『厳立峡』です。

     

 国道41号線の飛騨小坂で東方向に折れて7キロほど走ると「ひめしゃがの湯」(下島温泉内)があります。その奥1キロほどのところから始まる渓谷が『厳立峡』です。上の写真は飛騨小坂のHPからとったもので、右の写真が「夏の厳立(がんだて)」。今から5万4千年前、御嶽山の大噴火によって流れ出た溶岩がここで流れを止めて固まってできたのがこの大岩壁。高さ72m、幅120mだそうです。
 
以前、私は友人と来たことがあり、紅葉のときもう一度と思っていました。

          

          

 駐車場に車を置き、渓谷沿いによく整備された遊歩道を歩きました。私たちが歩いたのは往復3キロほど(どんどん上流まで歩けば往復で10キロ以上)、晴天に恵まれ紅葉も最高でした。でも、お店の人の話によると、この秋の気温変化は最悪で、例年ならこれからが見ごろなのに、今年はもう終わり、「しばらく冷え込んでいよいよ紅葉というときに、ポカポカ陽気で、木が驚いて葉を落としてしまった」そうです。

            

  日本の紅葉は世界一だと聞いたかとがあります。私は、初秋のカナダ西海岸のウイスラー(スキーのメッカ)をうろうろしていたことがありますが、あちらの紅葉は薄茶と黄色一色で、赤がないのです。日本の里山は、土の多いところと石の多いところ、水分の多いところと少ないところ、日当たりがいいところと悪いところなど、山肌が変化に富んでいて、それに合わせて多様な植生が繁茂しています。一方、カナダの方は画一的というか広大というか、同じ植物がいやというほど一面なのです。やはり紅葉は日本です。つまり「ウヒヒ!」です。