かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

寒い年の瀬に。

2017-12-31 | 気ままなる日々の記録

   先日、私たちが住む町の小さな郵便局から、薄い封筒が届いた。心当たりはなかったが、あるとすれば、数日まえ、郵便局から寄付金を振り込んだので、その時何かミスをしたことぐらいだと思った。心当たりがないということは、不安が先に立ちストレスがかかる。早くストレスから解放されたくて、急いで封を切ると中から横3センチ縦10㎝くらいの紙切れが出てきた、振り込んだとき受け取る領収書だった。私は受け取らずに帰ってしまったらしい。思い返してみると、そのとき、最後にお金を崩して貰ったので、気が散ってしまい、きっとどこかに置き忘れたのだろう。それを見つけたスタッフの人が送って下さったに違いない。この時期こんな小さな親切でも心が温まる。

 隣の市からこちらの町に引っ越して3年近年感じられなくなった人々の心の温かさをかんじる。ほんの少しの移動だが、何かが違うと思う。

 例えば犬を連れて散歩している人に遭う。知らない人だが、挨拶をされる。特に大きな犬を連れた人は、道を開けて、そんなに狭い道ではないが、それでも畦から降りて、田の端で待っていて下さる。毎日近くを通る小学生まで大きな声で挨拶してくれる。大きなスーパーやコンビニの店員さんまでもが親切である。

 大分前に新聞で「経済的に豊かになると心まで優しくなる」というようなキャッチフレーズを見たが、今住む町は県の中でもとても豊かな所だと聞く。そして最近料亭かどこかの豪邸か見間違えるような純和風の保育園が三棟建設された。この町内で育つ子供たちは将来優しい心を持つ人にそだつのだろうか。(E)

   

                                                                 散歩道で。

 

 

 


昔覚えた詩

2017-12-27 | 気ままなる日々の記録

「小諸なる古城のほとり」  -落梅集より-
                             島崎藤村

小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど          野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて           麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか           畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず          歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の           岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて       草枕しばし慰む


「千曲川旅情の歌」     -落梅集より-
                             島崎藤村

昨日またかくてありけり         今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)      明日をのみ思ひわづらふ

いくたびか栄枯の夢の          消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば          砂まじり水巻き帰る

嗚呼古城なにをか語り          岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ           百年もきのふのごとし
                   (百年もきのふのごとし)

千曲川柳霞みて             春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて         この岸に愁を繋ぐ
                   (この岸に愁を繋ぐ)

  筆者が高校生の時  友人の父親が

「お前たちの年頃は何でもすぐに覚えられるから、良いと思った文章や詩を覚えて友人に自慢しあうといいぞーといったとかで、半年くらい片っ端から文章を暗記して、友人に自慢するという遊びが流行した、「ああ、ロッテさんさようなら、時計が十二時をうちます。・・・・・・・・・。」これは「若きヴぇルテルの悩み」の終りの方の名文句の一節である。オソマツ君も高校時代の友人には恵まれていた。思えば青春時代にいい友人に恵まれるとその人の人生も豊かになる。

 今日は12月27日。ここは朝から、牡丹雪が降りしきっている。僕は降りしきる雪を見ていることが好きで、無心に降雪を眺めている。雪は天からの絵手紙と云った人がいたが、正にそうだと思う。(T)


自問自答の楽しみ。

2017-12-24 | 気ままなる日々の記録

  4年前の12月15日のあけがた、トイレに行こうとして、ベッドの横に立った時、「寒い!」と思った瞬間に突然激しい頭痛に襲われその場に崩れ落ち、家内が救急車をよんでくれて総合病院へ。そこでレントゲンを摂ったりして頂いた病名が「右脳視床下部内出血による左半身不随」というもので、即入院。それまで、何不自由なく過ごしていた僕が突然の半身不随に。正に天国から地獄に落ちた思いだった。

 1ヶ月ほどその病院にいて、転院を勧められ移った先がリハビリ施設が充実している総合病院。その後併設のホームへ。今ここで四度目の正月を迎えようとしている、

 「世の中一寸先は闇と云う諺があるが、正に僕のことを言っているようだ。ここでは個室にベッド、「りはびり」と呼ばれている訓練が週三日、理学療法士と呼ばれている指導者の指導で機能回復訓練。残りの三日がお風呂。

 チョット前に比べれば実にありがたいことだ。

 しかし、このリハビリが「労多くして功少なし」だと思われる。「これをしないと「寝たっきり」になりますよ」と脅しますが、僕はそれを信用していない。

 個室のベッドにいても、トイレは自分で済ませているし、車椅子を操作して新聞を読みにも出かけている。

 「リハビリ」は昔の針;灸。マッサージが進化したものだが、思いのほか楽しくない。「医療行為に楽しいものなどない」と云えばそれまでだが、日本的思考で「針の莚に座る」程効果があると説得されているようなきがする、

 思えば、寒中にふんどし一本で滝の下に立つというような修行を好むのは日本人だけだろう。

 とはいえ、目も耳も健常者のままで、終日ベッドで寝ておられるなどと云うことは正にありがたいことで、この時間を有効に使うべきだと考え人類がたどり着いた最高に美しい理論だと云われている「相対性理論」と「量子力学の概要」を知ろうと文庫本の解説書ヲ今読んでいるところです。

 原子爆弾が造られ残留ほうしゃのうが問題になっていたころ「人類は核融合によって無限にエネルギーを取り出すことに成功するだろうと云われていたが、あの話はどうなったのだろう?(T)

 

 

 


小春日和に誘われて。

2017-12-22 | 気ままなる日々の記録

  今日は正に小春日和で、家内に車いすを押してもらって近くの田圃を見に出かけました。

ここの水田は農業の近代化に成功した田圃ばかりで、一筆が広く、給水用水路と排水用水路も見事に整備されていてよく管理されています。

 いつも感心していましたが、今日はちょっとがっかりしました。

 第一はあぜ道の草が刈ってないことであり、第二は田圃の土が農道に溢れ通行の邪魔になっていたことです。

 小生は高校生までよく家の手伝いをしていて、田圃の農作業は熟知しています。

 今はそれらが機械化され、昔のように農夫が腰を曲げて猛暑の中で農作業をするということは、なくなりましたが、機械化とともに農夫のモラルも失われた気がして残念です。

 失われたモラルの第一は「ご近所様に迷惑を掛けない」と云うことであり

 第二は、いつも土作りに気を配るということです。

 具体的には①自分の畑に隣接する農道は何時も綺麗にしておく、ということであり、

 ②いつも「土造りに気を配るということです。

 具体的には畔道の草はいつも綺麗に刈っていて、

 種の付いていない草は土に埋め込み、種がついていそうな草は夕方まで待って乾燥させた後燃やして灰にして土に戻したものです。

 これらが土つくりに最高にいいからです。

 ところが、最近の農家は草は刈らない、刈った草は燃やさず農道に放置していて車いすの僕は通りにくくって泣かされる始末でした。(T)

    

                                お茶会で  ころ柿。


今日ここ「太郎と花子」の避難訓練がありました。

2017-12-22 | 気ままなる日々の記録

  前もって館内放送で予告があり、その時間になったら、「火事です、火事です。落ち着いて下さい」と繰り返し云い、いよいよ慌てさせるような口調でサイレンの音まで流していました。落ち着かせようと云うなら、落ち着いた声でゆっくり云うのが、常識ですが、この放送は慌ただしい話し方で聴いている人も慌てさせる。どうやら、訓練用のテープを消防署が作成していて、従業員の多い企業に貸し出しているようです。「落ち着いてください!落ち着いてください!」と大声でわめく。というのは全く矛盾していていかにもお役所仕事という感じで苦笑を通り越して怒れてきました。消防署もお役所だと思うとますますいや気がさしてきます。戦前も戦後もお役所気質は変わらず、真面目な顔をして、酷くばかげたことをします。そして、その評価は勿論、自画自賛。とまあ、こんなわけで今日はとんだ一日になりました。(T)

   

                           散歩道で  山茶花。


ラ・フランスの思い出

2017-12-19 | 気ままなる日々の記録

 ふるさと納税の返礼品であるラフランスが今年も届いた。蓋を開けると不正形でまだらのついたまだ固い感触が手に伝わってきた。そして、掃箱詰される前の山形天童市の厳しい気候も感じとれた。

 ラ・フランスは最近ではとてもよく見かけ人気もあるが、20年も前はまだ市場に出回っていなかった。少なくとも私が住んでいた地域では。

 私が、ラ。フランスを始めて見たのは遠い昔遠い土地でのことであった。私が主人にあまり無理な願いをしたことは無いが60歳になる前に一度だけ大きな願いを聞いて貰った。一か月間ホームステイをさせてほしいと。行先はカナダのバンクーバー。子どもたちも家を離れ就職している頃だった。ホーム・ステー先は、バンクーバー市街からシーバス(湾を渡るフェリーをそう呼んでいた。)で10分ぐらいの北バンクーバーの住宅地、三食ベッドルーム付のホストマザー一人暮らしのアパート。

 当時68歳のホストマザーとは年もそんなに離れていなかった性かよく気が合っていろいろなところへ連れて行って貰った。

 あるとき、ホストマザーに友達が再婚してパーテイーがあるが一緒に行くかと尋ねられた。何でも珍しかったので、ついていくことにした。パーテイーが開かれたのはアメリカワシントン州にほど近い国境の田舎町だった。牧草地が広がり長閑な雰囲気が漂っている地域だった。友達の家も広い庭付きの家で芝生の周囲には果樹が一杯植えられていた。そこで、見慣れない直径3センチ程のラ・フランスの小さな実を見たのだ。ラ・フランスとは言わず『ウエスタンペア」と教えられたような記憶がある。それから間もなく日本で見かけ大好きな果物になるとは当時思いもよらなかった。

ラ・フランスと一緒に蘇る遠い昔の思い出話である。

                                                                                                                              ”


日本文化のすばらしさ!

2017-12-17 | 気ままなる日々の記録

 オソマツながら、先日誕生日が過ぎた。此処まで来ると、自分が何歳であるかも定かでない。日本人男性の平均寿命は確か77~78歳だったので、其れは越えた。正に馬齢を重ねた感じだ。

 子供の頃はよく扁桃腺炎になり38度以上の高熱を発して母親に氷枕を造って貰って4~5日ねていたものだ。それが、敗戦によって、アメリカからペニシリンがどっと入り保険適用薬になって、すぐ治るようになった。

 家は一応小地主のいえであったが、戦後の改革で「農地解放」で安い値段で農地を国家に買い取られ、しかもその代金は25年払いの市価を下回る安値。あれは、一種の革命であったと思われる。

 僕は次男で都会へ出てサラリーマンを夢見ていたが、兄が国立大学の工学部を出て大阪の会社に就職した。その会社の寮に入りそこから通勤することになった。ここで騒ぎ出したのが僕の両親で、誰か家に残って農業をしながら両親と同居してくれなかったら、年老いた親はどうするんだ?というわけだ。母親は僕にお前は学校の先生か市役所に勤めて自宅通勤でとにかく、親の面倒を見て呉れなければ、年寄りは自殺するしかなくなる。と騒ぎ始めた。僕が高校3年のときである。

 そこで、僕は教員養成系の大学へ進み、大学生の時どうせ教員になるのなら、高校の教員がいいと思い始め、国立の教員養成系の大学の数学科に入った。大学の数学を学んで腰が抜けるほど驚いた。当時工学部系の数学は微積分が中心で計算力がものを言ったが、理学部系の数学は、新しい空間の提示により新しいルールによる計算を少しするだけで、その空間内でどんな定理が成り立つかの研究が中心だったからである。

 その頃兄は工学部で難しい微積分や、微分方程式を解く計算を盛んにしていた。僕が学んだ大学は、偏差値が高い大学ではなかったが、先生には恵まれ、世界確率学会の機関誌編集委員をしておられる先生にもお世話になり、大学院への進学を勧められたが、勧められた大学は東京か京都か広島であったので、親に相談するまでもなく辞退した。高校教師になってからは、進学やろうと呼ばれる教師だった。

 大学進学を希望する生徒のために早朝補修をし夏休みも始業時間早めての補修を引き受け、福井県の松原海岸から一の宮まで、車を走らせて補修をやった。英語や理科はよくできるが、数学だけつまずいて有名国立大学に入れないという生徒を僕が数学の面白さを教え、彼らを夢中にさせ3月に見事合格して喜ぶ生徒の顔が忘れられなくて夢中になっていた。あのころはよく酒も飲んだ。

 当時の高校教員は日教組と呼ばれる教職員組合に入っていた。掉尾は「べ平連」とか「原水禁」と云う組合運動が盛んで。僕はそれぞれの団体の機関誌に目を通していた。あるとき、組合の幹部が、アメリカの原水爆実験には反対するが、ソ連の実験には反対しない!」と云い始め呆れた。彼らを「思考停止野郎」と名付けてバカバカしくて議論さえせずその組織を脱退した。当時の日教組は宗教活動のようであった。それにしても、頭のよくない僕がいい友人と素敵な先生に恵まれたことは正に不幸中の幸いであった。今思い出しても友人や先生方には、心からお礼を申し上げたい。(T)

     

                                                           夕日に映える雪山


不思議な携帯メール

2017-12-10 | 気ままなる日々の記録

 水曜日の朝だった。携帯のメール着信音が鳴った。娘だと分かった。何故かと云うと娘しか登録していなかったからだ。

娘からの着信音は、可愛らしい鈴のような感じのおとがするので、すぐ分かる。

 私と家族はいろいろな方法で、連絡を取り合っている。息子と上のまごとはE-メールで、孫娘とは携帯電話で、その母親とは固定電話で。すぐ隣に住む主人とは、ケータイと時には車いすを漕いで、と云う具合である。

 さて、娘からの携帯メールだが、急いで蓋をあけると、「九時過ぎにお伺いする」と出ている。あと数分しかない。週末しか来訪したことがない娘がどうして、今まで数時間前か、前日に連絡するのに、どうして?という疑問が湧いた。それでも

前向きに考えて東京出張の帰り急に実家に泊まったかもしれない。キイウイが豊作と云っていたので、また、届けるつもりかもしれない。12月はこまめに帰省すると云っていたので、有給を取ったのかも知れないといろいろ考えてみる。

 九時過ぎになってもくる気配はない。見間違いかも知れないと再度携帯を手にし着信メールを見る。ふぃしぎなことに、先ほどのメールはどこにもなく、全然異なるメールがでた。人騒がせなメールにより、変な気分で幻覚症状でもでたのかな、と思った。

 パソコンでも想定外の画面が出てビックリすることがある。文明の利器はときどき人を惑わすこともあるかと、自分自身を納得させた。それにしても、不思議な携帯メールであったことに、間違いない。(E)

   

                     家のキイウイ

 

 

 

 

 

 


我が国の外交は大丈夫か?

2017-12-08 | 気ままなる日々の記録

  最近の新聞トランプ米大統領の関連記事でもちきりだ。「エルサレムをイスラエルの首都と認定しアメリカの大使館をエレサレムに移すと宣言してみたり、朝鮮の近くの海域で米韓合同の大訓練を実施して、北朝鮮に圧力をかけてみたり、

 瀬戸際外交というべきか、エルサレム問題にしてもイギリスを始めフランスもドイツも憂慮しているが、大統領選挙のとき、ユダヤ系アメリカ人の応援を貰ったのでそのお返しとのこと。

 トランプ氏の当選祝いに真っ先に駆け付けてトランプを喜ばせた安倍首相も大丈夫かと疑いたくなる。

 まあ欺瞞と云えば我が国の近代史は欺瞞の塊のようなもので、憲法に非武装中立と書いていて、アメリカの核の傘にまもられているなど、紳士の態度ではない。非核三原則にしても、アメリカの核の傘にまもられていて、北朝鮮の核実験に反対できるのか、我が国ほど言葉遊びで八方美人ブッテいる国はないと思えるがどうだろう?(T)

     

                                                              12月のイベント