大暑の頃の夕暮れ?
半藤一利さんに惹かれて半藤さんの本ばかり読んでいると、先に書きましたが、その背後にはどうして、日本は全く勝ち目のないアメリカとの戦争に突き進んだのか少しでもその理由が知りたいという好奇心があったからです。
半藤さんの言葉を借りて言えば、「「昭和と 云う時代の背後にはいつも、「赤い夕陽の満州が あった」ということになります。確かに中国東北部に軍隊を出し、征服してしまってから当時の清国に鉄道敷設権を認めさせ、その鉄道保護のための軍隊を駐留させ,やがて、行政権や警察権まで奪ってしまったわけですから、植民地確保に熱狂していたイギリス、アメリカ、スペイン、フランスなどの理解が得られるわけもなく、アジアを中心に植民地争奪戦を展開していたこれらの国に参入したことになります。
それにしても、考えられ戦争をやすやすと始めたりしたわけです、「冷静な判断」というものが、まるでない
狂気、あるいは、集団発狂状態に陥りやすい国民性については、冷静に反省し二度と集団発狂しないためには何をあの戦争から学ぶべきかを十分に検討しておく必要があると思われます。半藤氏が指摘している四文字七音の言葉に弱い日本人と云う視点も興味深いと思います。
尊皇攘夷「そんのうじょうい」、
八紘一宇「はっこういちう」
一億一心「いちおくいっしん」
七生報国「ひちしょうほうこく」などなどです。
意味も分からず小学生の頃からこういう言葉を口にしいつの間にかそれが真理だと思い込んでしまうところが日本人の特質のようです。
八紘一宇は「日本書紀に出てくる言葉で、昭和15年ごろから盛んに云われるようになり女の子には紘子《ひろこ》男には一宇(かずくに)と云う名前がつけられるようになりました、
八紘は四方と四隅、つまり世界のこと、一宇は一つの家と云う意味で合わせて世界を一つの国にする、もちろんその中心にあるのは日本です。天孫降臨と云う神話に出てくるお話です。
こうした神話を広めたのは、日蓮宗の在家宗教家で田中智学と云う人が国柱会という政治団体を結成し八紘一宇をこの団体の柱にして宣伝したのでした。この言葉に多くの日本人がかぶれてしまって、理性を失ってしまったような状況が出現したのでした。後になって、植民地化されたアジアの諸国の独立と連帯を強め、白人支配からの解放を意図したのが太平洋戦争だったという言い訳が生まれたのも「八紘一宇」の拡大解釈で、しょせんは、日本の神話に立脚した勝手な解釈で世界にもアジアにも受け入れられるはずもない、おとぎ話でした。
日本を代表するような東芝の粉飾決算のニュースを聞くたびにすごく優秀な人たちがあんな許されないことに手を貸していった日本的なムードにゾーッとさせられます。組織の論理に同調していく日本人的あり方がここにも表れ、「八紘一宇」に熱狂したのと同じ弱さを見る思いです。自然災害の博物館のような日本列島に住んだ日本人は洪水にせよ大地震にせよ、起きてしまった時にはごちゃごちゃ云っていなくて、皆で力を合わせて復旧に努めた方が勝ちと云う生き方を身に着け、いろいろな考え方を大切にし真に正しいものは何かと云うことを考えない習慣を身に着けてしまったという見方もできます。
皆で心しないとまた世界を相手に戦争をする羽目になったり、あっさり富を奪われたりしそうですよね。半藤さんの本からそろそろ卒業しようと思っています。夢中で読んだのは以下の2冊です。
「あの戦争と日本人」文春文庫 半藤一利著
「昭和史1926~1945年」平凡社ライブラリー671 半藤一利著
今日午後3時の「お茶会」で同じ階の書家にお会いし雑談に興じました。
話は自然に暑くなったことに及び今日は何と室内でも36度にもなっているということに、私も家内もエアコンの下にいるしかないですね、と云っていたとき、書家が「お母さんのおなかにいる時にはズーット36度くらいで過ごしてきたのに、生まれるとすぐに36度は暑いと感ずるようになるのはどうしてだろうと考え始めたけれど、どうしてもわからず、インターネットでいろいろ検索した。
けれど、納得のいく説明に出会っていないけど、どう思いますか?」と聞かれて慌てました。なんと素晴らしい疑問でしょう。オソマツ君は今まで全く考えもしなかった身近な疑問です。書家の感性に感動しました。こういう感性がないといい字が書けないのかもしれません。
生き物には体内時計が組み込まれているように、どこかに、体内体温計がくみこまれていて、その上、生命活動展開に適温まで設定されていることでしょう。体内時計が太陽光の紫外線に反応するという話を聞いたことがありますが。体内体温計は表皮のいたるところにあるはずです。
7月29日(水)に追記しています。今日リハビリの時、理学療法士(女性)に書家の偉大な質問のはなしをしましたら、赤ちゃんはお母さんのおなかの中では羊水の中にいる。その温度は確かに36どぐらいでしょう。ところが、赤ちゃんは暑いと思わないそれは、我々が36度のお風呂に入ったとき暑いとは思わないのと同じではないでしょうか。とのことでありました。赤ちゃんは何時もお母さんから36度の血液を貰って体温を保っていますから正に暑くもなし寒くもなしの快適な状態だと思われます。さらに、羊水の中でも活発に動いていて常にジョギングをしているほどの運動量で少しぬるめのお風呂の方が気持ちいいかもしれませんね。
大暑の頃の夕暮れ
チョット不手際がありますので、恐縮ですが首の運動も兼ねてご覧ください。
土潤うてむしあつし(だい35候 沸き立つような蒸し暑い日々:7月28日~8月1日ころ)
夕食後散歩に出てもすぐに汗ばむ今日この頃です。稲は見違えるほど逞しくなり、蛙の鳴き
声も一段とおおきくなりました。
同階の書家から舞鶴地方の方言一覧を頂戴しました。先回の「蛙の呟き」を読んで作ってみたというお話でした。書家は東舞鶴ご出身です。そこで、東京へ嫁いだ妹の話を思い出して東京で話題になったとかいう尾張方言を二つ紹介します。①尾張ちほうでは「柿をちぎって」と云う言い方をします。ところが東京では「ちぎって」というと「契る」と受け取られ柿と何を約束するのだ。とバカにされると云います。「柿を収穫して」とか「柿をもいで」というのだそうです。
②尾張地方で細長いテーブルを運ぼうとしたとき「テーブルの向こうを吊って」といいますが、東京では決して「吊って」とは言わず「テーブルの向こうを提げて」というそうです。東京では「吊る!」と云うと釣り糸とか「蚊帳を吊る」のように軽いものを吊るすイメージがつよいのだそうです。「ところ変われば品が変わる」と云いますように本当に難しいものです。私は方言賛成派で、本当は方言と云う言葉自体がきらいです。東京方言が標準語などと、誰が決めたかといいたいところです。雪国は雪国の言葉でしか表せない情緒があると思っていまして沢山方言を覚えたいとさえ思っています。
次に書家から戴いた舞鶴方言の中から尾張方言と同じものをご紹介します。アンマリ「あまり」
エライ「くるしい」、デキモン「はれもの」、バンゲ「晩」、チガウデ「間違っている」、ナニユウトルンヤ「何を言っているのか」、スンダ「終わった」、タワケ「あほ」
次の舞鶴方言で尾張方言にないものクスバカス「くすぐる」、シトッチャー「していられる」、ソウコ「そうか」、メゲル「壊れる」、コベル「話す」、イッチャロ「行ってみよう」、行ってデスン「行かれますか」
こんなところでしょうか。きっとNHKあたりに全国の方言を調査している研究機関があってほんをだしていることでしょう。それにしても、舞鶴と尾張に同じような意味の方言が多いのに驚きます。これは多分京都の世民の言葉が広がったからでしょう。江戸時代には木曽川の渡しも整備され、近江商人が大勢行商に尾張へ来ていたと書いてあった本を読んだ記憶があります。シツレイシマシタ。
上のトマトは、私の発病前からの家庭菜園の師匠であり、パソコンと老後の生き方の先生でもあった大師匠からの頂き物であり下の書はこの老人ホームの同じ階にお住いの書家からのいただきものです。大師匠のブログは「GOOブログ「私の70代」です。是非ご覧ください。
トマトを栽培するにしても土作りから始められて摘花から肥料までプロの栽培が行われた証がこのトマトです。夕食に頂きました。美味しいこと。いい甘さでした。
書家の作品は1月1日から始まって365日の日にちが書き込まれて全体として文字になっています。計画的な割り付け、から書体の統一などすごい技が込められています。
またお二人は殆ど同年配で、約10歳オソマツ君より年上です。いわば素晴らしい先輩で大いに見習わなければ、なりません。私にとっては、お二人は、富士山と北岳(日本で標高第2位の南アルプスの山)です。
書家は大正15年生まれとおっしゃったので私が昭和元年ですねと申し上げたら、いや、私は大正天皇ご存命の時に生まれましたので、正真正銘の大正生まれですとおしゃいました。
家庭菜園の師匠の方は昭和2年か3年のお生まれですから書家の方が少し先輩で、書家は軍隊経験がおありですが、師匠の方は軍隊経験はないとおっしゃっておられたような気がします。
オソマツ君は生粋の尾張弁を誇っている。
東海地方が梅雨明けした模様と気象庁が発表したのは3~4日まえでしたか。その頃から汗をかくようになりついに背中の下の方に汗疹が出来て痒い。すぐ皮膚科の先生に見てもらってお薬を出して戴いた。以下はお風呂を出たときの会話、Oはオソマツ君、Cはケアーさん。
C[薬を塗るってどこに塗るの?どこもきれいなお肌だよ}
O「背中の下の方、あきゃあ、ぼろぼろができとるぎゃあ。そこにぬって、さすってのびゃぁてみゃあたいんんだわ」
C[あきゃあ?Oさんは生粋のおわりべんだね。赤いところということね、お育ちはどちら?」
O「江南市は後飛保というところ・Cさんはどちら?」
C[私は岡崎」
O[そんなら、じゃん、だら、りん、だね。岡崎と豊橋の違いは分からんが」
C[岡崎は何と言っても徳川様の町だから上品よ。その点豊橋は三河百姓のまちだから、のん、ほい、が強いはねえ」
O[たわけ!と云う言葉しってる?」
C[きいたことあるある。バカ!と云う意味の尾張弁だよね」
O[そうそう。僕の妹が東京に嫁いでいて娘の授業参観に小学校へ行ったとき娘のクラスに何と、田輪毛と云う名字の生徒さんがいて、先生が○○の分かる人?と云われるとハイ、ハイ、と大勢の生徒さんが手を挙げる時、先生が「たわけさん」といわれるそうで、妹は可笑しくて笑イを堪えているのに東京の人は誰も笑わないそうだ。”たわけ”という言葉がないからだそうだ、たわけ!は生粋の尾張弁でバカより優しくて親しみがある言葉ですよ」「たわけだなぁー、おみゃあさんは~」とかね。
ただ今入居中の有料老人ホームは三度の食事は給食で、時間が来るとお膳が配られる。そして、毎回お膳を見て、「やあ~、またこれだ!」とガッカリする。自宅で食事をしていた頃、そんなことを思ったことは一度もない。なぜだろうかと考える。まずここのお膳は構成が毎回同じだ。大皿は魚の煮つけか肉の野菜煮、小鉢が野菜の煮物小皿が卵焼きかソーセージ。
お椀は赤みその味噌汁。この味噌汁だが赤みそであるのは有り難いが、この前も具に缶詰のコーンが使われていて驚いた。肉は五割が牛の細切れであとは、チキンであったり、豚であったりだが、味付けがまるで好みと違う。家では長い間おふくろの料理だったし、後半は家内の料理だったが、今思うと、二人とも私の好きな食べ物を完璧に知っていて、味付けも、煮方も私に合わせていて呉れたに違いない。その有り難さに当時はまるで気づいていなかった、思えば、下流人が下流たる所以は失って初めて有り難さに気づくという点で、オソマツ君はその代表であったと今悔やんでいる。和食が世界遺産に認定されたといって騒いでいるが、本当のところは白人諸君、やっと気づいたかね、といったところだ。特にしいたけ味や昆布味については皿ものには全く見られないダイヤモンドとルビーいうべきだろう。ところが、料理学校の先生たちは今まで、そのことに気付いっていなかった。
盲目的皿もの崇拝で、コショウやカレイ粉ばかりを珍重していた。盲目的西洋崇拝野郎が多すぎる料理業界である。TVで料理番組を見ていても、これはスペインの○○港町の家庭料理です。などと云って自慢げにいっているが、ちょっと待ってくれ、あんな貧しい地方の家庭料理が美味しいはずがないのになあ、と思え来る。美味しい魚は売られて猫も食べないような落ちている魚を拾ってきて作っているのがあの地方の家庭料理だろうに、と思えてくる。この料理もカタカナの名前で云っていた。カタカナの名前を付けておけば高級料理だと思っているらしい困った業界である。此処の料理担当主任もそんな料理学校をご卒業で何とか免許をお持ちだろうが、あまり評判のいい味付けではなさそうである。
オクラと云う奇妙な野菜がある。あのヌルヌルした種ツブツブの野菜がよく小鉢で出される、訊けば旬にはやすいという。ところがオソマツ君はあれが苦手である。何とあのヌルヌルが栄養価が高いとか、これはもうイジメの世界である。おふくろも家内もあれはどんなに安くても買ってこなかった。見てものっけから買う気にならないのだそうだ。これが家族だ。アリガタイことだ。それにそれにしても、もっと早く気付くべきであった。正に下流老人の下流たるゆえんである。今悔やんでいる。お粗末でした。(此処までお読みいただいて、オソマツ君の母親も奥さんも亡くなったのかとお思いの方がお見えになるといけないから追記すると。母は亡くなったが家内は健在であるが、まだお礼を言っていない。以上参考までに)
「あの戦争と日本人」の中で面白いところを見つけました。
12月8日真珠湾攻撃が発表された時多くの日本人がそれをどう受け止めたか、記録が残されている。半藤氏の概評によると多くの日本人の中に「尊王攘夷」の思想が残っていて,こいつが時々頭を持ち上げると云います。開戦の時も当時の有名論者は一様に攘夷賛成,
戦後進歩派として論陣を張っていた清水幾太郎氏も「便秘から悪性の下痢になり脱水症状に陥り、終には死に至るかもしれないという危険を遠くに感じながら、しかし、長い間の苦しい便秘の後にようやく便通があったという感じであった」と答えている。危機に際して「尊王攘夷」が顔を出した瞬間である。
軍縮交渉から、石油の輸出制限などの外交の失敗がここにいう便秘だろう。島国特有の視野の狭さが日本の外交官の稚拙を生みました。
本当に現在も我が国の外交は、お粗末である。もう少し勉強してから「あの戦争と日本人」の問題を外交の面から考えてみます。交渉相手の本音や弱点がよくわからなくて自己主張ばかりして決裂するわけです。顧問外交官を雇ってキリスト教文化や相手国の世論の動向を分析してもらう必要がある、うっかりすると、外国人顧問が二重スパイになることもあるので、こちらの情報網もしっかりしていないと危ないですが。
もう一つ忘れてならないことは、日露戦争に勝った経験の正しい勝因分析が不足していたことです。いわゆる国力、国民総生産でいうと日本は2億、ロシアは20億で10倍の差があり、銑鉄の生産量でいうと、ロシアが年間294万トンで日本が2万トンで100分の1にも達していません。福岡県に製鉄所を造って追いつこうとしましたが、それが、動き出したのは明治34年でした。日露戦争でロシアのバルチック艦隊と戦った日本海軍の戦艦は皆イギリスから買ったもの、その費用捻出のため、国家公務員は一括10パーセントの給料削減、天引きされた費用は全て戦艦購入費に回されました。日露戦争ではそのイギリスが自分の大切な貿易相手国ということで、日本に味方してくれて、バルチック艦隊は日本海に来るまでにひどく歳月を要し疲労困憊で到着したところで日本海軍と戦ったわけです。この経験をも基に国力さ10倍以上のアメリカとの戦争でも勝てると信じたのも軽率でした。明治時代は日清日露と戦争ばかりで、一応勝ってきましたが国民生活は貧困に喘いでいました。産業の近代化がおくれたからです。この国民の貧困を救うために政府が考えたのが100年前の先進国が行った植民地獲得作戦で満州国をつくり貧農を移民させようとしました。こうして、太平洋戦争の種が蒔かれた訳です。古い価値基準で国策を考えるとひどい仕打ちが待っています。この意味で政治と外交の大切さに国民は目覚めるべきだと思います。
「日本の一番長い日」(文春文庫)から「あの戦争と日本人}(文春文庫)へとアマゾンで取り寄せ今夢中です。半藤史学とでも呼べる視点が面白いからです。夜中に起きていて昼間お昼寝です。バチが当たるような生活で働いておられる若い人たちに申し訳ないことです。
こうしてみると、自分は昭和人間で、①どうして日本はアメリカとあんな戦争をしてしまったのだろうとか、②「神風特攻隊」などと称して若い人に爆弾を抱えて体当たりさせるなどと云うことをだれが考え誰が命令したのか、あるいは、③周りにいる人はその狂気に誰も気が付かなかったのだろうかなど気になって仕方がない。
それに、俺が爆弾抱えて行ってくるから後を頼むぞと率先垂範するのが陸軍士官学校の卒業生ではなかったのか。親ならそう考えると思う。何処かおかしい。
「集団発狂した」という説明の仕方もあるようだけどそんな恐ろしい病気持ちの日本なんか好きになれないし危なくてしょうがない。面白くないテーマですが、上記の本を読み終えたところでチョットだけこの問題に触れさせてください。
7月17日の毎日新聞「余滴」二例の新国立競技場のことについて、「誰が何処で決めたかサッパリ分からず費用だけどんどん膨らんでいく」と嘆いていたが、例のアメリカとの戦争も誰が何処で戦争することを決めたかサッパリ分からないのがにほんである。とくに役所は責任が生じないように訳の分からない「審議会」や「研究会」開催して御用学者をうまく使って答申と云う奴を出させ、狙った方向へ事が運ぶように筋道を付けいつとはなしに決まったたことにしてしまうのである。要するに責任という発想は全くない。国立競技場の担当は文部科学省であった。ここは国家公務員の中でも力の弱い人たちが集まっている。力のある人は財務省とか通産省へ行ってしまうので厚生省と並んで弱体官庁のように見えます。とくに費用の一部を東京都に出してもらう案を造ったとき、それは「地方自治法に違反しますと云って東京都に断られた時は無様でありました。もう一つ、ポツダム宣言を受諾するか否かを決める閣議が結論が出ず、受諾の発言をすると陸軍大臣が私を切ってからそういう発言をしろ!と怒鳴ったと云いますから、どんな閣議をしておったことでしう。この発言は昭和天皇のご臨席を得て開かれていたときで、さすがに昭和天皇が陸軍大臣に「もういいよ」と注意されたといいます。言論の自由とか民主主義とか人類がその歴史の中で多くの血を流して学んで来たものを我が国は「地は流したが学ばなかった」と云えるだろう。占領軍が導入してくれたのでまだ、地となり肉となっていない感じがします。「集団的自衛権」についての論争も今一つかみ合っていない感じがする。次の選挙で今の与党が半減したら初めて日本がいい勉強をしたことになるような気がしますがどうでしょう。
昨夜NHKテレビで船村徹さんをゲストに迎え昭和の懐かしい歌を沢山紹介していました。オソマツ君は最近流行歌の歌詞に興味を持ち始め、よく流行った歌は確かに歌詞がよくできているなあと思うようになりました。そうしたなかで、一番好きな作詞家は星野哲郎さんで、何と星野さんの自伝を読むまでになりました。そのちょっと前の大御所は石本美由紀さんで西条八十さんなんかは好きでありません。
星野哲郎さんは広島市に含まれていますが、周防大島と云う瀬戸内海に浮かぶ島の出身。現在は本州との間に橋が架けられ車ですぐに広島市内に入れるそうですが星野さんが育ったころは全て連絡船に乗って本州に渡っていたとか。旧制中学は広島の中学へ連絡船で通われたとか。その後神戸の高等商船学校の機関科に進まれ、卒業後は貨物船の機関師助手として船に乗られ、韓国や中国、沖縄との間を荷物を積んで行き来されたそうです。
激しいお仕事で体はへとへと、或る時、男子トイレに血痕があったとかで、船内が大騒ぎになり、星野さんが疑われたそうです。星野さん曰く「私は遊郭へも一度も行ったことがないので悪い病気であるはずはない。」と云うわけで、港へ寄った時に病院へ連れて行かれて頂いた病名が「腎臓結核」で即入院の必要ありということだった。
入院を断り実家へ帰ることにされた星野さんはその時微熱もあり歩ける状態ではなかったので、実家へ連絡近所の人がリヤカーを引いて迎えに来てくれたと云います。戸板の上に寝かされてリヤカーで郷里の村へたどり着くには小さな峠を越えなければならなかって、峠を越える時は近所の若者に背負われて峠を越えそこから故郷の村を見たときは涙がどっと出て止まらなかったと云います。
実家では、離れが星野の病室になり窓も開けず、母親が戸を少し開けそこから、イワシの干物を焼いたものとサツマイモと野菜の浅漬けとミカンを置いて行って呉れるのでそれを365日食べて廊下へ出しておくと母親が下げてくれると云う毎日だったと云います。
村には1軒だけ内科の医院があってそこの先生が時々往診してくれるという生活でした。その先生は村のことを何でも知っている方であるとき、お母さんに「確か妹さんがアメリカに行ってアメリカにいる日系二世の人と結婚してサンフランシスコに住んでいると聞いたが今でも連絡が取れるかね」と聞かれたといいます。お母さんが戦争が終わって連絡が取れるようになりました。お陰様で元気に裕福にやっているようです」と答えるとその妹さんに○○と云う薬を薬局で24本買って送ってくれるように頼みなさい」と云われた。聞けばアメリカでは腎臓結核の特効薬が開発されていてそれはまだ日本には出回っていない薬だとのことでその先生がよく研究して星野さんにつかってあげるとのこと。やがて航空便でその薬が届き先生が注射してくれ腎臓結核は完治したとのことでした。星野さんは元気になっていろいろな会合に顔を出すようになって
①自分が港で降りた貨物船はそれから沖縄に向かったが、アメリカが戦争中に敷設した機雷に沖縄近くで触れて爆発。船底に穴が開いて船沈み乗組員全員が死亡したことや
②イワシの干物の丸焼きを骨まで食べたことやミカンや新鮮野菜の浅漬けをたべ、サツマイモを食べたことは栄養学的に何の問題もなく腎臓結核に一番良い食事だったという話を聞き、星野さんは不幸のどん底に落ちたと思っていた時もチャント大自然に自分は守られていたんだとつくづく思うようになったと云います。確かに彼の詩には、不幸の中にあってもどこかに明るい希望がみなぎっています。それが人気の出る点かもしれません。鳥羽一郎さんの持ち歌「兄弟船」を見てみましょう。
①番、波の谷間に命の花が 二つ並んで咲いている。 兄弟船は親父の形見 型は古いが時化には強い俺と兄貴のよお夢の揺り籠さ。
③番、たった一人のおふくろさんに楽な暮らしがさせたくて兄弟船は雪の簾を潜って進む 熱い血潮は親父ゆずりだぜ。
困難な状況のなかにあっても何処か明るくて力強い。
星野さんの経歴で忘れてはいけないことは腎臓結核闘病中に近所の貸本屋の息子さんが星野さんの友達で週刊誌や月刊誌を持ってきてくれました。そんな週刊誌によって、横浜港だったかが開港100年を記念して大々的なお祭りをしその時○○港開港100年記念歌をつくり発表したい。その歌詞を公募、賞金付きで募集していることを知り、賞金欲しさに船に乗っていた時の出港や入港の時の感慨を詩にして二編の詩を書きあげ二つのペンネームで応募したらその二編が1位と2位に選ばれてしまった。選考委員の一人が作曲家の船村徹氏が語ったところによると、どちらか1篇を1位とし3位を2位にしましょうかと云う意見が出たが船村さんが募集要項に一人1篇と書いてないのに後からそんなことをするのは許されない2編ともいい詩だから私が曲を付けて2曲とも発表しレコードの売れ行きによって真の1位を決めればよいと主張されたとのこと。こんなことがあって、東京のレコード会社が星野さんの名前を知ることとなり、新人歌手を売り出そうとするとき、その作詞を頼まれるようになったと云います。星野さんの原点はやはり、海であり船でした。
さて、この写真は何でしょう。眠そうなお顔の読者様の、目が覚めるように苦心しました。
ユーモアは、卒業として、現在は文春文庫「十二月八日と八月十五日(半藤一利著を読んでいます。著者はご存じのとおり、東大の文学部をご卒業の後、文芸春秋社に御就職,やがて月刊「文芸春秋」誌や週間文春の編集長をご歴任、我が国の論壇に広い人脈をお持ちであるとともにご自身も昭和史の研究者として何冊かの本を出版しておられる方です。この本で著者は12月8日午前6時から時間ごとに総理官邸や閣議の模様をドキュメンタリー風に描いておられます。
「大本営陸海軍部発表」「帝国陸海軍は本八日未明,西太平洋に置いて米英軍と戦闘状態に入れり」の発表まで時の総理大臣も外務大臣もこの作戦について何も知らなかったということである。
一番滑稽なことは外務大臣が東京の駐日米国大使館に電話しようとしたら、警察の手によって開戦と同時に、米国大使館の外線は全部止められていて通じなかったということである。天皇も出席する御前会議も事後承諾を求める形式で事後議題にしている。海軍部のこうした作戦をぼんやり聴いていたのは前総理で政界の重鎮だった近衛文麿が、山本五十六連合艦隊司令長官と雑談したとき山本が「日米開戦となったとき、最初の一年は充分に暴れて見せますが、二年目に入るころは、危ない、従って政府には、開戦と同時に和平の交渉に入り、戦況有利なうちに講和に持ち込んでほしい」と云っていた、と云う程度の情報しかなかったということである。
だから、今あの大戦はどんな会議で誰の責任において開戦が決定されたかが、今日でも不明であるということである。東京裁判ではこの近衛氏が死刑になっている。アメリカ的には誰が何時開戦を決めたか分からないということは、ありえないことである。しかし、日本では、大切なことほどそれが分からないのが常である。いつの間にか、空気がそのような雰囲気になり、いつの間にか決まり、責任者はいないようになっている。
村の寄合から大会社の取締役員会まで、いつの間にか「空気が」流れ、「空気に逆らうような意見は議論をする前に無視される」。こんな文化の我が国がアメリカに押し付けられて自衛隊の出動を認めたら、すぐに大きな間違いを起こす危険性があると思われます。
チョット喩はよくないですが、数年前女子高校生が仲間外れの子をつくりみんなでいじめる時に「あの子はKYだからと云う言葉を使うということが新聞で話題になったことがあります。KY_は空気読めないの略だそうで、要するにみんなで仲間外れにしてしまうという「いじめ」でした。ここでいう、空気が日本特有のその場の雰囲気と云う奴で、背後にいる実力者に同調するという協調性と云う奴で、没個性を要求する集団の文化です。これが国を誤らせる危険性があるかです。
↑ 我が家のサクランボ!
家内に叱られながらアマゾンで本を買うこと頻り。今では本棚のように並べて文庫と新書で1mは買い込んだ。そんな本の中に「ユーモアのレッスン」(中公新書)もある。そこに紹介されているユーモアある小話を紹介します。勿論ネタを借用して類似品を造ろうという魂胆です。
例①イギリスで著名な経済学者ケインズ先生のユーモア。イギリス経済が長期にわたって不調でなかなか明るい見通しが立たないとき大勢の新聞記者に取り巻かれて「先生、我が国の将来の見通しはどうですか?」としつっこく尋ねられた時「うーん長期的な将来見通しは」と云って、ここで、咳払いをして「我々は皆死んでいる」と答えたと云います。さすが、ケインズ先生である。
もう一つ。例②ご存知の通り、アメリカはヨーロッパからの移民を多く受け入れて出来上がった国である。ヨーロッパからアメリカへ入植した人たちは宗教的にはプロテスタントであり、耕地を持たない貧しい農民たちであった。これを知っているフランス人がアメリカ人に「可哀そうにアメリカ人は自分の先祖がたった3代先ぐらいしか分からないらしいね。」と云ったそうだ。これを聞いたアメリカ人が「最近ではフランス人は自分の父親が誰だか分からないそうだね」とフランス人をからかったと云います。フランスに見られる性の解放を皮肉ったものである。こういう会話はヨーロッパ人や英国人・米国人はうまい。日本人は最も苦手である。若い人たちに期待しよう。
例③ユーモアに富んだ俳句の例《前述の本より 「秋深し、隣は、小便長き人([詠み人知らず)
解説など不要ですが、一言。「秋深し」とくれば、隣は何をする人ぞ(芭蕉)を連想し秋の情緒漂う言葉が来るかと云う聞き手の期待をひっくり返し、水洗便所でない《汲み取り式)の隣の便所から休み休みの老人性の小便の音が聞こえて来たのでしょう。少し汚いですが、これを読んだときは笑いが止まりませんでした。こんなユーモアのある文章が書きたいものです。
例④女性の生き方を語る講演会で講師の樋口恵子さんが「老婆は一日にしてならず」と云って会場の爆笑を取られたとか。元の格言は「ローマは一日にしてならず」ですが、確かに、老婆も一日にして老婆になったわけではありません。長い彼女の人生が、今の老婆の中に集積しています。その意味で「老婆は一日にしてならず」は名言です。
例⑤イギリスの大宰層相チャーチルさんの話。彼はどんなに多忙でも自分のペースを崩さず日曜日には必ず趣味の絵を描いて凄し,プロはだしの絵を描いたと云います。その彼にある人が、絵を1枚も画かないのに名士だからと云う理由で公募展の審査員をしている人がいますが、そんなこと許されると思いますか?と聞いたといいます。チャーチルは少し考えて「問題ないと思いますよ。私は卵を産んだことは一度もないですけど、卵が腐っていると直ぐ分かりますから。」と答えたと云います。さすがです。