かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

福井県南条ハス園へ寄りました。

2010-07-21 | 気ままなる日々の記録

娘が帰省し一泊、帰りに彦根まで送ることになり、ついでに福井県南条ハス園に寄ろうかと提案したら「是非!」というので出かけました。
ハスの花は、第一日目は早朝五分咲き、夕方には閉じ、第二日目早朝八部咲き、夕方には閉じ、第三日目に早朝全開、この日は夜も閉じず第四日目の夕方には散り、受粉が終わると花の中心部の色が変わると聞いて、感動しきり。

 

右の写真、アマガエルが吸盤全開で蕾にしがみついていました。「生きるのも楽じゃない。でもこれがワタシの仕事」、かわずの呟きでした。

 


煙雨の中の木槿(むくげ)

2010-07-13 | 気ままなる日々の記録

今日は朝から雨、庭の「むくげ」が艶っぽい表情を見せていました。この木は晩年の母が植えたものです。この木を植えたころ、母は友人に勧められて「花木通販」の会員になり、毎年春と秋に数本の花木の苗を庭に植えていました。今と違って当時の通販は日数もかかり、梱包も粗悪でしたから、根づかせるまでが大変でした。乾いてしまったミズゴケの中から苗木を取り出し、数週間前から用意していた床に植え、毎日水をやっていました。母が亡くなってもう二十数年、私の手入れが悪く、今も花を咲かせてくれる花木は数本しか残っていません。「むくげ」はその中の一本です。


大正2年生まれの母は昭和9年に結婚、父の勤めの関係で名古屋市東区に居を移し、平凡にして平穏な日々を送り、私たち3人の子どもを育てていました。そこに突然襲った最初の災難は父の発病でした。昭和16年、私たちは田舎に引き上げてきました。その4年後、今度は地震と津波が同時に襲ったような第二の災難に見舞われます。敗戦。天を突くようなインフレ、金融資産の消滅、農地解放、食糧難などなど。母たちは少しばかりの農業を始めました。しかし、今思うと、母は底抜けに明るく強い人でした。鶏、ヤギ、ウサギを飼い、裏の小川に仕掛けを作ってドジョウを捕り、タニシを養殖して私たちにたんぱく質を食べさせてくれました。ころころ笑っている母の顔はたくさん脳裏に焼き付いていますが、しょげた姿を思い出すことはできません。奮闘15年、昭和30年代中ごろから少しずつゆとりができ、趣味の旅行・短歌・貼り絵・花木などを楽しむようになりました。例のごとく老人の繰り言でしょうか、むくげの花を見て親たちの生きざまに頭を下げ、自分たちはとても及ばないと自省し、今の日本の若い者はどうなっちゃたんだ、と思ったりしています。

風景ー心のふるさと

2010-07-05 | 気ままなる日々の記録

  私が好きな風景の一つです。心が落ち着き、いつしかこの中に少年時代の私が立っています。

 私の通った中学校には「農繁休暇」がありました。それは「はんげ」の翌日から3日間で、この期間は、晴雨に関係なくどの家も家族総出で、早朝から「田植え」をしていました。田んぼでは多くの友人に会いました。しかし、決して遊んだりふざけたりはしませんでした。あぜ道を縦に並んで歩きながら、私が「ここだ」といって家の田に降りると、友人はちょっと足を止めて「ここか。一時間だな」といってその先に行ってしまいます。私は少しむっとして「一時間で済むものか。大きな口を利きゃあがって。3時間だ」と思いながら目で追うと、友人は数枚先に田に入って行きました。この時二人の気分は、もう一人前の大人でした。

 昼食は林の木陰でのお弁当でしたが、いつ頃からか、5歳下の妹が持ってきてくれるようになりました。がぶがぶ飲んだ番茶も、日の丸弁当も、採れたてジャガイモの煮つけも、とても美味しく、食後少し休んですぐに仕事にかかったものでした。
 私が田植えをしたのは昭和24年からの6年間です。

 私の家は、戦後始めた「にわか百姓」で、当時の蔑称で「3反(30アール)百姓」と呼ばれた農家でした。畑が1反半、田んぼも1反半で、ほとんどが自家用で、少し出荷したのはスイカとサツマイモぐらいだったでしょうか。
 中学生になったら弱音を吐きません。腰が痛くなったり腕が抜けるようにだるくなったら、黙って背を伸ばして自分で腰や肩を回していました。親とともに味わう達成感の心地よさを知っていたからです。夕方、帰路につくとき母親が「お前たちが大きくなったから、今年は思ったより早く済んだ」と笑顔で言ってくれた時も、心の中で生意気にも「子ども扱いしないでくれ」と思ったりしていました。

 「はんげ」というのは「半夏生(はんげしょう)」 のことで、中部地方以南ではこの日までに田植えを終わり、この日は「仕事休みの日」となっているところが多いようですが、私の家のでは、「はんげ」の前に田植えをすると虫にやられる、という言い伝えがあって、田植えを始める日はよく守られていました。多分、用水の一番下(しも)に位置していたため、水争いが起きないように、こんな戒めにして自重を促したのでしょう。この虫というのは「二カメイチュウ」のことで、8月穂が出るころに大発生して、田が一面に白く濁り収穫はほとんどなしになる恐ろしい害虫のことです。


房なりトマト

2010-07-01 | 気ままなる日々の記録

今年はじめて挑戦したのが「房なりトマト」だ。これは通称で正式な名前は不明。側聞によるとミニトマトではなく、味が濃厚な中玉トマトだとのこと。当初 、前掲のトマト桃太郎よりも幹がよわよわしくて心配していたが、気温のせいか追肥のせいか、近頃は頼もしくなってきた。このまま色づいたのではミニトマトの域をでない。もう少し大きくなったくれとエールを送っている。


今年もお陰さまで。

2010-07-01 | 日記
トマトをつくり始めて5~6年になるが、一度も失敗していない。注意していることは「連作を避ける!」だけだが、近所の人にも「上手だね」と褒められるほどの出来ばえだ。自分としては「運がよいだけ」に思えるので、植え付けのときには「今年は痛い目に遭うかもしれない」という気がして、その分、何かに祈りながら作業をするようになっている。
 お陰さまで今年も順調、もうすぐ「朝どり新鮮トマト」を満喫することができそうだ。