土曜日にインフルエンザ予防混合ワクチンとかの接種を受け、左腕が真っ赤にはれ上がり昨夜の睡眠はトロトロしたものだった。おかげで自分は子供時代に帰り祖父といろいろ雑談に興じた。
思いようによっては、少し気味の悪い幻想である。
祖父は明治24年生まれで、当時岡崎にあった愛知県立第二師範学校を卒業し長い間知多半島の漁村僻地で小学校に勤め後半は校長になってその村の青年教育にもタッチしていたようである。
祖父の時代小学校は4年までで義務教育はここまで。この上は高等科と呼ばれて小学校内に高等科1年と2年が設置されていた。
小学校内に高等科もある学校を尋常高等小学校と呼んでいた。祖父は小学校を卒業後村久野にあった高等科へ行った。高等科を卒業したとき小学校の先生をやらないか、と声を掛けられ小学校の教員になった。いわゆる「代用教員」である。
義務教育といっても、明治の中頃の農村では小学校も高学年ともなれば大切な働き手で、親は子供を高等科へやらなかったし、女の子は小学校へも通わせない親が多かった。
明治政府は我が国を西洋の先進国のように高度の文明と産業と軍隊で強い国にしようと「教育勅語」を発布し全ての子どもに読み書きソロバンを教えようと力を入れそれにこたえて農村でも小学校や高等科への通学率が向上すると教員不足が起こって代用教員が急増した。
祖父は熱心に「代用教員」を務めていたが、周りの先生から、どうせ教員をするなら、師範学校を卒業してから教員になった方がいいというアドバイスをもらって、師範学校を調べたら名古屋の第一師範学校は入学試験が終わっていて、岡崎の第二師範学校なら出願が間に合うということでそこを受験して合格し5年ほどそこへかよったようである。
師範学校は全寮制で授業料も安く下宿や食事の心配がない。入学当時東海道線は開通していて尾張一宮から汽車に乗り岡崎で降りて寮まで歩くというのが常識のようであったが、祖父は汽車賃が高くて、モッタイナイということで、岡崎まで歩いたと云っていた。朝明るくなるのを待ってお弁当を二つ持って出発し、夜暗くなって門限ぎりぎりに岡崎の寮に着いたとのこと
途中枇杷島か鳴海とかの農家の井戸を借りて水を飲み弁当を食べていると、そこの農家のオバサンが味噌汁を温め漬物と一緒に持ってきてくださり「学生さんかね、頑張ってるね」と励ましてくれたといいます。そのお味噌汁やお漬物がどんなお刺身より美味しかったと何度も話していた。多分塩分を体が求めていたからだろう。(T)
晩秋の散歩道で。
祖父は根っからの子ども好きで、紙芝居のオジサンのような話し方をし手振り身振りも心を込めて行いアッという間に子どもの心を掴んでしまう。いつの間にか子どもたちの集団の親分になってしまい、子どもたちを思うように動かすことができ、子供たちの個性を把握し適切な命令も下していく。
最近の小学生のイジメ問題や、アンケートを実施したらいじめを見たという生徒がいた。などと云うニュースを聞いたら祖父は、担任の指導力のなさや、情報収集力の乏しさを嘆くことでしょう。
祖父の時代担任は誰がイジメをしやすいか、誰が被害者になりやすいか担任は手に取るように知っていて、また、アンケートなんかしなくても、クラス内のことは手に取るように知っていた。雑談の中で生徒が友達に話すように担任に何でも話してくれるからである。
祖父の話術は付属小学校での教育実習の時担任の先生から学んだと云っていた。
それに比べると現在の教師の話力はとても足元にも及ばない。
原因は文部科学省の怠慢と形式主義による。具体的には教員免許取得に必要な「教職単位」と云う単位の内容のなさ、昔の学歴だけで教授に収まっている人の講義を聴いて優秀な教員が育つとは思えない、
もっとお粗末なのが教育実習である。付属の優秀な先生の指導を受けて話力をつけ、生徒の心を掴む指導力を身に着けなければならないのに、現実は一人の指導教官に5人も6人も学生が付いて2週間過ぎれば実習は終わる。
之では立派な教師は育たない。
酷い大学になると教育実習も形骸化してしまい2週間が過ぎれば実習も終了と云うところもあるようである。戦前の師範学校の方がもっとまじめに教師を育てていたといえる。
戦後は教育の民主化とかで教員養成をグチャグチャにして放置してあると云うべきだろう。(T)