かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

「失礼します!」の正しい意味について考える。

2015-05-29 | 気ままなる日々の記録

オソマツ君が入っている部屋に大勢の人が「失礼します!」と云って入って来る。大きなモツプを持った掃き掃除の人、、消毒液を染み込ませた雑巾を持った拭き掃除の人、ゴミ箱をかたずける掃除の人からシーツ交換の人、食事を運んできてくれる人からお膳を片付けてくれるひとまで、多種多様だ。皆さんに感謝しているけれども、失礼しますと云いながら。ドアを突然開けられるとチョット厭な気がする。ここは、住宅型介護施設で、各部屋は入居者の住宅である。オソマツ君の期待する会話は「しつれいします!」「どうぞ!」それからドアーが開く。という流れである。我々は入院している訳ではないので、やはり「どうぞ」の後ドアーを開けてほしいと思う。別に裸になている訳ではないが。

 そこで「失礼しないでください」と書いてドアに貼ろうか、と思ったが家内に猛反対された。「そんなの見たって、何の事だか誰も分からないわよ」と云うのが家内の意見である。つまり「失礼します!」という言葉の中に許可をもとめる意味合いが含まれているかどうか、と云う問題だ。礼を失した行いをします。と宣言し相手にそれを伝えておいて許可を求めて許可されたら行うということであれば、少しも礼を失していないことになる。失礼する以上、許可なくドアーを開けなければならない、と云う言い分も成り立つ。

もう一か所盛んに「失礼します」と云う言葉をつかうところがある。お風呂である。

 ここでは「お下(しも)」と云う言葉も使われる。お尻は後ろで、お下(しも)は前である。「失礼しますお下(しも)洗います」と云う使い方である。ここでも応諾は求めていない。「失礼します、お下洗います」と云い終わったらすぐ、石鹸の付いた小さなタオルでもうゴシゴシ洗い始めている。つまり「失礼します」の中には許可を求めるニュアンスはない。と云う使い方だ。許可を求めてから行っていては失礼にならないからだろう。オソマツ君の期待する意味なら「失礼していいですか」というべきである、ということになる。お下を洗ってもらうときオソマツ君は何時も右手で、洗いやすいようにお手伝いをしている。あるとき次のような会話をした。Oはオソマツ君Cは中年のケアーさんである。

O[邪魔くさいものが付いていて、洗いにくいですねえ。スミマセン。」

C「邪魔くさいものではなく、大事なものですがね。それでも、面白いですねえ。男の人はみんな同じ形をしたものが付いているなんて」

O「みんな同じ形をしてるかね」

C[同じ形よ」

O[そうか、右手がみんな同じ形をしていることと一緒だね」

C[それにしても、面白いはよ」

O「同じだから、安心しておられるけど、違っていたら、変な形の男は自殺するかもネ」

C[そこまでしなくてもいいともうけど。それより、いろんな形があったら、女の浮気が増えるかもね」

O[そうか。それも問題だね」

これが本当のシツレイシマシタである。

 

 


寝浴初体験

2015-05-28 | 気ままなる日々の記録

今日はお風呂の日である。普通だとオソマツ君は10:30からだ。だから、10:00に新聞閲覧コーナーに行っていて、順番が来たら声を掛けてもらう。ところが、今日は10:05ぐらいに、お声が掛った。聞けば座浴用の浴槽が壊れて使えなく、シャワーだけにするか寝浴にするか二者択一と訊かれた。

 寝浴は経験がない。チョット不安もあったが、シャワーだけでは、暖まらないとと思い、寝浴を希望した。寝台から、浴槽へ移るのに何がどうなったのか、よく分からないまま、慣れた手順のケアーさんの手によってアレヨアレヨと云う内に寝台から張り出したボードの上に移され、そこで、下半身も裸にされ、掛け湯の意味のシャワーでザーッと洗い流した後でボードが下がっていって、体が湯船に漬かった。

 それと同時に浮力によって、体がフワフワする感じがして、慌てて何かに捕まりたくなる。ところが、捕まるものがない。そのことを訴えると「大丈夫だよ、私たちが体を持っているから」とのこと。あの不安と信頼が寝浴の醍醐味である。自分の車いすから、寝台から張り出したボードに移してもらった時も4人のケアーさんに「ヨイショ」と掛け声と同時に持ち上げて貰った。この半身不随者を入浴させるのは大変な労力が必要だ。それを思うと申し訳ない限りで、はやく座浴用浴槽が治るように祈ること頻りだ合わせて「ヨイショ」が無くて済む浴槽の開発が待たれる。力持ちのロボットも開発されている。あの技術者をもってすれば、全てがボタン操作で可能な浴槽の開発が待たれる。この年になって人生初体験を経験した。全てに関して感謝あるのみである。

(無関係な追加)今朝早朝から蓮池の散歩に出かけた。爽やかな空気を吸うためと、日光浴のために。ところが自動ドア―が、開かない。内側の戸は7:00にロックがはずされるということだったが、外側の戸のロックが外される時間がわからないとのこと「多分、8:00」かなあ」ということで、ガッカリした。そこで、事務の人が「鴨が卵3個を産んでいて今温めているそうですよ」と最高のニュースを教えて下さった。

そう!雛がかえるといいですね」と私の顔もほころんだ。親鳥の後を必死で追いかける雛鳥をみてみたいものだ。抱卵中の鴨を探したが見つからなかった。もし雛が孵ったら餌を考えてやらなければとあれやこれやと、心配になったが、いつも池を掃除していて下さるスタッフの人が考えていて下さると思い、お任せすることにした。

 

 

 


子どもの頃の思い出ー母を中心として。

2015-05-24 | 気ままなる日々の記録

介護施設に入って、読書三昧、少し疲れてボーとしていると、突然子どもの頃のことを思い出し、そこにはいつも母がいる。

母は1年を毎日旧暦で過ごした人だったような気がする。

 年末になるとお宮の係りの人が、高島某所から発行された1年の暦《小冊子》を配って来たものだ。

 そうすると母は、その暦と新しいカレンダーを広げてカレンダーの日付欄に旧暦の何月何日かを書き込みそのカレンダーを居間の鴨居にぶら下げていた。毎年旧暦の何月何日に何をしなければならないかが決まっていたようだ。お盆は、間違いなく旧暦で決められた日に、決められた行事をしていたし、ひな祭りや端午の節句も旧暦を使っていたような気がする。母の実家は同じ後飛保で、この地域は、江戸から明治にかけて蚕を飼って栄えた純粋農村地帯である。

 明治政府が太陽暦を採用するまで、我が国は、全国で旧暦(陰暦)を使っていた。   この方が農作業との相性が良かったから、大正、昭和になってからも、年中行事はすぐに太陽暦に切り替えにくかったと思われる。例えば、子どもが大きくなって新しい少し大きめの洋服を着せる時は、必ずお正月またはお盆からであった。その代表が足袋で、長男はいつも少し大きめの新しい足袋をお正月からはいていた。次男はいつも、兄のお下がりで、穴が開いたところは周りとよく似た色の布で穴を埋めた足袋であったが、これも、お正月からであった。

 端午の節句には菖蒲の入ったお風呂を立て、男の子は菖蒲の葉で鉢巻をしてお湯に入った。4歳下の妹が「私も・・・・」と云ったとき、母は「女の子は、鉢巻はダメ」と云って、菖蒲の葉から上手に簪を造って妹の頭に射してお風呂に入れていた。妹は欲張りで、もっともっととおねだりして、沢山頭に菖蒲の簪を指してもらっていた。その妹も数年前、慢性リンパ性白血病に罹って亡くなった。その、菖蒲も後飛保あたりでは、太陽暦の5月5日では葉がそれほど大きくない、お店で売られているものは、鹿児島県か宮崎県産で空輸されたものだろう。

  

                                                             ↑2015年5月26日 蓮池にて。

 ひな祭りの日の数日前にはお餅を搗いた。茹でたヨモギを搗き込んだり、紅粉を混ぜて搗いたりした。お雛様にお供えする菱餅を作るためであったし、残りで、赤や緑のアラレも作ってくれた。黒ゴマの入ったアラレもあった。焙烙(ほうろく:土で作ったフライパンのようなもの。で炒って食べた。美味しかった。

アラレを焙烙(ほうろく)で焼くとき、最後に、お酒とお醤油とお砂糖を混ぜたものを、醤油さしに入れてサーとアラレに掛ける。ジューッという音がして焙烙に掛かった醤油が焦げる。このとき、辺りに美味しい匂いが立ち込める。この醤油が掛ったアラレの美味しいこと。市販のアラレも醤油が掛って いるが、味には、天と地ほどの差がある。お盆にトウモロコシの初物を炭火で焼いたときも醤油・砂糖をお酒で溶いたものを塗るが、このときも。いい匂いが立ち込める。

 アルコールはうまみ成分を連れて食材の中に染み込む力があると聞いたことがあるが、真偽のほどは分からない。こうして書いているだけで、辺りに美味しい匂いが立ち込めてきた錯覚に陥る。もう70年も前の思い出である。随分遠くへ来たものだ。

アラレのことを思い出している最中に突然「張り板」のことを思い出しました。「張り板」で分かりますか?幅が50~60センチで長さが4mぐらいある1枚の板でこれによく布がはりつけてあった。我が家にはこの板が4枚ぐらいあって、太陽の光に対して直角になるように片方を物干しざおに乗せて立てかけてあった。その板には子どもたちの浴衣などの着物をほぐして(縫い代の糸を全部抜き取って》洗濯をして最後に薄い洗濯糊に漬けてから板の上で伸ばした木綿の布が貼り付けてあった。

 あれは何だったのだろうと家内に聞けば今は全部クリーニングに出すからもうどこの家もあんな面倒なことはしないという話だ。確かに浴衣を一度着せたら糊付けをしてもう一度縫ってから翌年まで和ダンスに入れておくわけだ。夕食後の針仕事の多さがこれで分かる。あの時代確かに母親は忙しかった。家事に追われっぱなしだ。今頃母親の労を労っているのでは遅きに失している。洗濯機が普及しクリーニングに出すようになっただけで主婦はどれだけ救われたことか。クリーニング店では大きな重いスチームアイロンで一気に張り板に代わる仕事を片付けてしまうとか。

 こう思って生活環境を振り返ってみると、生活の電化万歳だ。近代化が一番遅れているのが住宅分野だと思われます。キーワードは断熱だろう。折角の暖房や冷房がいとも簡単に空気の流れによって失われその空気の対流を止める工夫が全くなされていない住宅が多すぎる。以上「昭和残照物語」でした。シツレイシマシタ

 


久しぶりに、母親から仕事を云いつけられている夢を見ました。

2015-05-19 | 気ままなる日々の記録

「太郎(仮名)お昼からお客さんがお見えになるから、午前中に雪隠(せっちん)の掃除をしておいて!」そういえばおふくろはトイレのことを雪隠、雪隠、と云っていた。当時の我が家はトイレが2か所にあって、座敷の奥にあるのを、「上便所」または「雪隠」といい、外のものを「外の便所」または「便所」といい、何故か「外の雪隠」という言い方をしなかった。

            ↑焼黒一木囲炉裏テーブル(施設内)

 雪隠の掃除は子供にとって大仕事だった。まず、底に[下]と書いてあるバケツ二つに水を汲んでそれぞれに雑巾を入れて両手に下げて雪隠へ向かう。水道が引けたのはそれから4~5年後だから、井戸で水を汲むのも大変だった、母屋の南東の角にスレート葺の屋根の下に井戸があった。

 井戸には長い木の棒が出たポンプがあって、その棒を上下させて水を汲む。棒を下げる時に水が出るが、このとき、棒は重い。殆どぶら下がるようにして棒を下げる。水を汲む作業はその繰り返しである。トイレに着いたらまず紙が入れてある箱を整理し、紙が少なくなっていたら追加する。トイレットペーパーが普及したのはこのときより、14~5年後である。続いてタイルの部分の雑巾がけをする。もう一つのバケツの雑巾を使って便器の雑巾がけで一切の汚れを拭き取る。窓を閉め忘れて落ち葉が舞い込んでいたりする時は、もちろん、外箒で掃きだす。最後に窓を少し開けてトイレ掃除は終了である。また井戸まで戻って雑巾を洗いなおしてよく絞って干して、やっと全ての作業が終了である。

何かの折に「雪隠はおばあちゃんの言葉で、お母さんは使わないで。友達の家でも雪隠なんて、どこもいっていないよ。お母さんは僕ぐらいの時トイレのことをなんて言っていた?」ときいたこともあった。「女学校の時は「お手洗い、憚り(はばかり)、 ご不浄、 厠(かわや)、WC ,お便所」、といろいろあったよ。今東京の女学校ではこうゆうらしいよ、という噂が広がると、あっという間に皆がそう云うようになっていろいろあったけど、忘れちゃったかなあ。お手洗いが一番使われていたかなあ」と云っていた。そういえば、同じ階の書家は「便所」「小便」と堂々と言われ、風格がある。オソマツ君はトイレ小とか、トイレ大とかいっているようだ。やはり、オソマツである。

そう云えば、幼児語を使って「オシッコ」「ウンチ」と云う言葉をよく耳にするようになった。これを使うのはお婆ちゃんに多い。やはりオソマツである。もっと高貴な言葉を知っている人はコメントを使って公開で教えて欲しい。お願いである。高貴な言葉もあるはずだ。

 

 


蓮池と前庭

2015-05-17 | 気ままなる日々の記録

蓮池と前庭

家内が、所要で自宅に帰り、急いでここに戻った折り、チョット蓮池を覗いたそうだ。丁度その時。蓮池の管理人の方がお見えになり、「昨年は、ここの小島に鴨のつがいが来て巣をつくり卵を産んだが、今年は巣はあるが、卵を産んでいない」と云うお話をおききしたそうです。

丁度その時、鴨が二羽飛んできたので、急いでカメラを向けたとのこと。なお周辺の草花は今が満開で、正に春たけなわである。

      「三輪の天国香や二輪散る」

      「家富んで門高しバラ乱れ咲く」(ともに正岡子規)

      註、天国香はバラの品種。

 


愛国惚け老人の嘆き①~⑤

2015-05-17 | 気ままなる日々の記録

①昨日まで、もう梅雨かと思わせるぐずついたお天気で車いすのオソマツ君は大好きな散歩もままならず、車いすでテスクに向かって本を読んでいるとすぐに腰が痛くなって困った。やむなく、ベッドに横になってテレビをつけることになる。午前中のテレビなど見たことがなかったが、なんだかガッカリした。あまりにも、内容が無く、全体が下品の一言だったからだ。

 ちょっと昔までは、テレビに映るからというだけで、服装を整え、言葉使いも丁寧にし、全体が上品だったと思う。ところが、昨今のテレビは、部屋の中で奇妙な帽子を冠り、奇抜な服装をして目立とうとする輩が、下品な言葉を使い何の芸も身についていない芸人が、何かと云えばすぐに、台本を丸めた紙の棒で相方を叩き下品な言葉で相方をののしり、痴話喧嘩をして見せる。こんなものをよく、放映するなあとテレビ局のスタッフにも呆れるしかない。

 それに、料理を食べる映像の多いこと。だが、その食べ方が下品である。箸の持ち方さえも怪しげなタレントとかが顔を皿に近づけて痩せ犬のように食べている。この連中に食べ方を教える演出家はいないのかといぶかしく思える。テレビが子どもたちに与える影響は大きい。紳士淑女の立ち居振る舞いを見せてくれないと日本はいよいよ劣化するばかりだ。視聴率競争に一喜一憂していると聞くが、国民文化に責任を持つという観点を見失わないようにしてもらいたい。

 国民としての抵抗は、くだらない番組のテレビはすぐに消すということと、その番組のスポンサーの製品は買わないという最後の抵抗をして、惻隠の情豊かな上品な日本文化を護ろうではないか!《①終わり)

②オソマツ君は縁あって、アメリカに1か月ほど滞在したことがある。そのうち約半分が西海岸のサンフランシスコ市で、残りの半分が中西部のアイオワ州のデモイン市だった。これからお話しする事件は、サンフランシスコで経験した事件です。

 市内の繁華街を歩いているとある大きな本屋さんの前で、黒人青年がボコボコに殴られ道に倒れていた。殴ったのはこの本屋の店員たちで、白人や、中南米の茶色人種のようだった。道に倒れていた黒人は口から少し血を出していたが、むずっとさえも動かない。通行人も除けて覗き込みながら通るのだが誰も救急車をを呼ばないし、110番通報もしない。オソマツ君たちも公衆電話で通報しようにも電話番号も分からないし、状況を正しく言う英語力もないので、すごすごとホテルに帰り、早速添乗員や通訳の人に見てきた話した。すると、何と二人ともスゴスゴ帰ってきたことが正解だという。何故ならそんな事件の目撃者になると、ものすごい、調書をとられ、サインを求められ、裁判にでもなると裁判所に呼び出され大変な事になる。第一、予定の日に帰国できるかさえ分からなくなる、というのだ。通行人もそれを知っているから通報しないのだろう、ということだった。アメリカが抱える人種差別問題は根が深い。今までの白人の横暴が地層のように積みあがっていて、根深い対立になっている。その意味でアメリカは決して日本が憧れる社会ではない。それなのに、近頃アメリカ一辺倒のような言動が政府サイドから流されているのが心配だ。もっと伝統のあるヨーロッパ諸国を注目したいものだ。(②終わり)

③もう一つアメリカのお話で恐縮です。オソマツ君の上司のお嬢さんがアウト・オブ・デトロイトに住んでおられるということで、上司を乗せてレンタカーでデトロイトに入ったことがあります。

 デトロイトは自動車産業の街で、御嬢さんのご主人がトヨタが買収した、部品加工工場に技術指導のため出向されていたとかで、トヨタがケンタッキー州に造ったトヨタ車生産工場に部品を納入する工場がデトロイトにあったというわけでした。

 デトロイトの町は入っただけで異様でした。道を一つ隔てただけで極貧の黒人街が続き、道路には、アルコール中毒者が溢れ、道は生ゴミで汚れ異様でした。片側6車線ぐらいの広い道の交差点で、信号が赤になると道路から松葉杖の黒人が停車した車の助手席側の窓を叩き、手を広げておねだりをします。その時助手席に乗っている人は窓を少し開けて、1ドル紙幣か25セント・コインを2~3枚出して手渡さなければなりません。それをしないと、突然松葉杖で、車のボンネットを叩いたりします。1階の赤信号中に数台の車から募金を集めているようですが、問題は信号が青に変わった瞬間です。止まっていた車が一斉に動き出し、その間を縫って、松葉杖の男は道路を渡り切ろうとします。正に命がけで、大きなトラックが、黒人を見つけて急ブレーキをかけたたり、急ハンドルをきったりします。

しかし、松葉杖の黒人はそうして集めたお金で家族を養い子どもを育てていると云います。

もしここで、松葉杖の黒人がトラックに撥ねられて亡くなったりすると、交差点でボーっとしていた黒人たちが一斉に目撃者の証人になってトラック側に「前方不注意」があったように、証言すると云います。彼らは裁判になって、少しの日当を貰って証人になること大歓迎で、希望者が殺到する始末。

 目撃証言が多くてトラック側は絶対に勝てない裁判になるといいます。死者の家に損害賠償金が降りると、黒人たちは、その家にお手当を請求するといいます。

 いずれにしても、アメリカ社会は大変です。決して世界のリーダーになる資格もありませんし、最近では、経済力もあまりありません。

 アメリカが介入した戦争で戦後何とかうまくいったのは日本が最後で、その後は、グチャグチャにして引き上げた戦争ばかりです。(③終わり)

④ここにいて、気になることは病室で騒ぐ子どもを注意しない親がおおいことである。同じように、

廊下を走る子ども、エレベーターを乗り降りして遊ぶ子供を注意しない親が多くなったことである。マナーを教えようとしている親は完全に少数派である。どこで、ボタンのかけ違いが始まったのかよくわからないが、もしかしたら、幼稚園教育かもしれない。自由伸び伸び教育礼賛が横行し子どもたちが中学や高校生になったとき初めて社会から白い目で見られていることに気付きいやな思いをすることになる。自由のびのびは子供たちのためにならない。と知るべきである。場の雰囲気に気づかず大声で話す子ども、ドアーを開けて閉めない子や興味本位で失礼な行いをする子供も多い。昔のように怖いお爺さんが地域にいなくなったという、老人側の責任もあるかもしれない。《④終わり》

⑤もう数十年前になるがNHKのアナウンサーで朗読の達人松平何某と云う人が松尾芭蕉の「奥の細道」の現代語訳を朗々と読み上げたCDが売り出されたことがあった。オソマツ君はそれをいそいそと買い込み、音楽を聴くように何度も聞いていた頃があった。その一節に「人は何と言っても正しい道に励み義を護るべきだ。そうすれば名声が後から付いてくる」というような一節があったと思う。そのCDにはパンフレットも付いていて、原文と訳文が載っていた。ここでいう義とは「義を見てせざるは、勇なきなり」の義である。これを聞いて、我が国の江戸時代は何とレベルの高い社会であったことかと感動したことを覚えている。徳川家康と云う人は、世界に誇れる大政治家であったと思われます。寺子屋教育による識字率の高さ、「論語」を中心とする道徳教育の徹底。大型土木工事による水田田畑の整備、参勤交代による、経済の活性化、全国の大名が子ども時代江戸で過ごしていたので、大名が集まって会議ができたという。そうでなかったら、少し離れた国の大名はそれぞれ、方言が強くて会話が成立しなかったという。全国の大名の後継者を人質として江戸に残させたというと、残酷なイメージになるが、その裏に、凡人が気づかない効用が隠されていた訳だ。その江戸の良さをすべてゴミ箱に捨てさせたのがアメリカの占領政策で、その尻馬に乗ったのが我が国の左翼だった。江戸時代は過酷な年貢に追われて農民は一揆ばかりしていたという、歴史観であった。北朝鮮による拉致疑惑だ持ち上がった時「社会主義の国がそんなことをするはずがんない」と豪語した党首のいた政党もそうだった。我が国の教育界は未だに、「道徳教育について、冷静に話し合える状況にない。松尾芭蕉さんに恥ずかしい状況だ。教職員組合は道徳を「どー(とく)解くか」ばかり議論しているというジョークが今なお健在である。オソマツの限りだ。《⑤おわり)

 

 


難漢字のページ 

2015-05-13 | 気ままなる日々の記録

薔薇バラ朧月おぼろづき御嶽おんたけかすみ 幽鬱ゆううつ

上の漢字はインターネットで「一番画数が多い漢字?』で検索しました。ただし何と読むか出ていませんし意味も不明です。見ているだけでいやになります。

no titleもう一つどうぞ。これも読みも意味も不明です。オソマツ君が高校時代に、誰かが「お前読めるか?」といって書いた字が男を二つ並べて書いてその間に女を書いた字を見せてくれたことがありました。その友人はいたずらにニヤニヤして「なぶる」と読んで「本当だぞ」といっていました。彼の名は覚えていますが彼の名誉のために書きません。シツレイシマシタ。この字もそんなような読み方でしょう。

思い出したのが何かの知らせ!早速「なぶる」で漢字変換をしてみますと

弄る、嬲る、名ぶる、菜ぶる、奈ぶるとでてきました。友人は正解でした!しかし、どこか釈然としません。封建的だなあ。男尊女卑?

現代なら、差し詰め、女を二つ並べて書いて、その間に男を書く字があってもいいだろう。何と読むかだがやはり「なぶる」でいい。邪推だが、同じ「なぶる」なら、後者の字の方が好きという人もいるかもしれない。何とか審議会が正しい字はこちらなどと決めるよりは、好きな方を書けばよいとした方が世界に誇れる言語(表記)と云えるだろう。シツレイシマシタ。

 

 

 


昭和56年(1981年)ごろのアメリカ

2015-05-10 | 気ままなる日々の記録

敗戦後日本に乗り込んできたマッカーサー将軍を最高司令官とするアメリカ占領軍は、日本をどのようにして、忠実なアメリカの同盟国にするか大いに考えて占領政策を実施した。

 その背景には第一次世界大戦でイギリスは勝利したのにドイツの占領政策を失敗したと云う大きな教訓があった。ドイツは敗戦後わずかな期間にヒットラーを担ぎ出し再び英米仏と戦う国になってしまったからだ。アメリカの占領政策の柱は憲法の押し付けと教育改革であった。教科書に墨を塗った記憶のある人も少なくなったがもう一つが新制中学の新設と義務化であった。全国土が空襲によって焼け野原になっていたところへ、3年間の中学の新設を地方自治体に押し付けたわけだから当時の村長さんや町長さんの苦労は並大抵でなかったと思われます。米国は、この新制中学のすべての教育活動を通して、「忠君愛国」や論語的な「忠や孝」を中心とした従来の教育を粉砕して米国流民主主義教育を徹底して、それらを身に着けた社会人を世に送り出そうとした。

 この占領政策は大成功をおさめ、その弊害は今日にまで及んでいる「自己の欲望を最優先させ「公」の視点を欠いた生徒の続出と、嘘で塗り固められた言動の横行である。

 前置きが長くなりましたが、ここに、公立学校の宿命が見えています。教育勅語の場合も、戦前の小学校改革の場合も、アメリカの教育支配の場合も、国家の方が社会改革のために、ある種の人材を社会に送り込んで彼らをリーダーに育てて、社会を自分の思う方向へ持っていこうとする意図を学校が背負っているという宿命です。

 ところが昭和56年ごろから初めて社会の方が学校に改革を迫り学校が自己改革をしなければ存続が危ぶまれるという状況が生まれてきました。具体的には「登校拒否」とか「不登校」と云う生徒の出現と増加でした。

 経済的な理由ではなく、生徒たちが育ってきた生活空間と学校に漂っている学校空間の間に越えがたい断層があるために生じてきた現象でした。

 これに気づいた行政当局は「個性尊重」とか「選択幅の拡大」などという対策を立てますが、教員サイドにはそれを受け止めるだけの柔軟性がありません。教育とは何かを「押し付けること」と思っているからです。そこで、行政当局は生徒の個性が最も尊重されているアメリカの学校制度を教員に見学させるという政策を断行します。文部省は小、中、高の教員を米・英・独・仏等の国へ「教育視察」に派遣する事業をスタートさせ、これに呼応して各県の教育委員会もそれぞれ独自に「教育視察事業」を開始しました。

昭和56年春オソマツ君は、愛知県教育委員会が主催する海外教育事情視察研修アメリカ西部班のメンバーにに選ばれ10月初旬から4週間の出張を命じられました。勿論事前研修という名目で、夏休み中とか、9月の土曜日の午後に名古屋の小学校に呼び出され、いろいろな打ち合わせや準備があった。班長さんは小学校の校長先生で、自己負担金はどれだけ増えてもよいが、とにかく安全に全員が帰国できるようにと考えられるお方でまるで、宇宙旅行にでかけるかのような緊張感を漲らせておられた。旅行中の添乗員兼通訳は交通公社の人だったが、学校訪問の時の通訳は、教育用語に自信がないので、できないということで、サンフランシスコの日本人協会に依頼してつうやくをしょうかいしてもらうことになりました。費用は勿論自己負担で。交通公社の添乗員が最初に注意したことは

①レストランで何かを注文して支払いをするときは必ず伝票を確認すること。注文していないものが記入されていることがあるから。そういう時は必ずこれは注文していないということ。というものだった。これは、レストランのウエイターが記入すべき伝票を間違えて関係ない人の伝票に記入するからだそうだ。伝票は通常客の椅子の背中のポケットに入れられているが、間違って注文した人以外の人の伝票に記入するのだそうだ。全く信じられない間違いだが、それだけ、従業員の質が劣化しているということのようだった。同じように

②支払いでお釣りをもらうとき、レジのデスクの上につり銭が全部そろうまで、手を出さないということだった。紙幣だけをポケットに入れたりすると、お釣りを出したか出していないかでもめるという。何しろいくらお釣りを出すべきかの暗算がトンとできない。それですぐにパニックになるということだった。僕らはそれにも呆れた。

③アメリカ人は先ず約束の時間が守れない。15分ぐらい遅れることは常識で、決して腹を立ててはいけない、ということだった。サンフランシスコで、市の教育委員会が推薦してくれた小学校や中学校を見学し、続いてアイオワ州のデモインと云う都市に飛びそこでも、小学校中学校、高等学校を見学した。ところがアメリカは当時から週休2日制で土日は、予定が無しになる。そこで、国立公園のヨセミテのブライダル・ベール・ホールを見に出かけたり、ロサンゼルスのデズニー・ランドへ行ったり、ナイアガラ・ホールへも出かけたりした。移動は殆どが飛行機で、早朝とか、深夜の飛行機は運賃が驚くほど安くなる。そこで、我々は殆ど早朝の飛行機に乗った。

 訪問した高校では徹底した選択性が導入されていて、1時間目から、温水プールで泳いでいる高校生を見て、腰を抜かした。当時の日本の高校では1~2時間目は普通教科を入れて、猛勉強させていた。アメリカの北部の10月はもうずいぶん寒い。そんな季節に温水プールが各高校に備えられていて朝から学生が笑いながら水泳をしているということが、どんなに贅沢な事かと思えてならなかった。

 これでは、お釣りの計算もできなければ、伝票の間違いも起こると納得した。学校が「集中力を高める」訓練を全然しない、嫌なことはしなくていいという空間になっていると。思えてならなかった。困難に立ち向かった時に如何に科学的・合理的に取り組むかを学ぶ場が学校であるべきである。また、嘘を云わない、約束は守る、陰口を云わないなど、紳士としてのマナーも学校で学ぶべきである。これがオソマツ君たちの一致した見解であった。

 添乗員は、いつもフライト&レンタルで、飛行場に着くと、すぐにワンボックスカーをレンタルして我々全員を車に乗せて目的地に向かっていた。つまり、彼のそばにいつも車があった。そうでないと、動きが取れないのもアメリカである。

 ところがデモインでは、我々のために女の教頭先生が車を出して道案内をしてくれることになり、メンバーの半分はその教頭先生の車に乗らなければならないことになった。

 さあ、誰が教頭先生の車に乗るか、希望者はゼロ。そこでじゃんけんをして別れることになった。

 次は誰が助手席に座るか、これもジャンケン。オソマツ君は2度とも負けて助手席へ。この女教頭先生がオシャベリで、盛んに話しかけてくる。目的地を二つ言って、どちらに行きたいか、訊いてくる。残りのメンバーに通訳してどちらかに決めておねがいする。添乗員は付いてくるからこれで全員の行先が決まる。責任を感じたオソマツ君は必死に説明を求め、聞き返して、メンバーに伝えた。その度に、「英語が下手で申し訳ないが……と云っては聞き返したり、言い直したりしていた。そうしたら、ついに、女の教頭先生が強い口調で注意した・「私は、日本語がわからないけれども、貴方に謝らないよ。だから、あなたもも謝る必要はないというのだ。オソマツ君は「アリガトウ!」と云ったが、これは、ショックだった。その時初めてアメリカはいい国だと思った。

こうして、実現したのが

 ①コンバインでトウモロコシを収穫中の青年へのインタビューであったし、

 ②標準的と思われる農家への訪問であった。

 ①アイオワは大平原で、土はいい砂地である。何しろトルネードで有名である。晩秋によく大きな竜巻がこの地方で発生する。車に乗っていても車ごと持ち上げられ、やがて地面に落とされるから危険である。道路のわきに頑丈なコンクリートで作られた避難壕がある、

 とにかくここへ潜り込んで手すりに捕まって、身を潜めていることである。農道で区切られた一枚の畑は、縦が300m横が200mぐらいあって、とにかく広い。ここに。

 トウモロコシが作付されていた。トウモロコシの出来は良くない。

 コンバインに似た機械はトウモロコシを根元から刈取り砕いて実を取り出し、ビニールの袋へ詰めていく。残りの葉や茎は粉々にして畑に戻してゆく。

 ①農作業中の青年は、運転席でコーヒーを淹れてサンドイッチか何か食べながらジャズか何かを聴いてい体を動かしている。彼はコンバインをUターンさせるときだけ忙しい。後は少しアクセルを踏み込んで直進するようにハンドルを握っていれば300mは直進でよい。

 この畑を済ませるのにもう1日要るだろうと云っていた。此処のトウモロコシが、家畜の餌として世界に輸出されている。

 ②教頭先生の車がある農家に入っていった。車が止まると、どこからか大きな犬が十数匹出てきて車を取り囲んで吠えかかる。とても車から出られる状況ではない。犬の鳴き声を聞いて、農家のアルミサッシが10センチほど開いてお婆さんが顔を出す、教頭先生が顔をだし何か言われた。お婆さんが犬たちに向かって何か言うと犬は急におとなしくなって僕たちをとおまきにしている。お婆さんが出てきて、倉庫や工作機械が置かれた建物の中を見せてくれた。日本の鋸屋根の工場より個々の農家の方が広い。各種の機械が置かれ、収穫したトウモロコシの袋がつみあげられている。この地方の冬は北極並みの寒さだという。そこで。

 この辺の農家はみなフロリダの方に別荘を持っていて犬も連れて全員で春までフロリダで過ごすという。

 フロリダの小学校は冬の間生徒数が倍増するというのだ。アイオワのトウモロコシは日本にも沢山輸出されていて日本で、鶏卵や牛乳になっている。蛇足ですが、アームの長さが3~50メートほどあるかと思われるスプリンクラーが水を吹き出しながらゆっくり回転しているのもアイオワの名物です。アメリカの国内線でここを通るとき飛行機の窓から下を見ると大きな円内に散水されている光景を見ることができます。しかし、10平米あたりのトウモロコシの収穫高は予想以上に少ないと思われます。かりに、此処を日本人が作付したら収穫高は倍増すること間違いなしです。日本人は農作物の声を聴きながら耕作しますから農作物の生育状態が違います。まあ日本人が農耕民族ならアメリカ人は狩猟民族です。先述の農家の犬たちのことですが、教頭先生のお話によると、お婆さんが「かかれ!」というと一斉に向かってきて、どんな泥棒さんも、強盗さんもたちどころにやられてしまうそうです。

 それにしてもTPPの交渉の行方が気になるところです。

     「薔薇深しピアノ聞ゆ薄月夜《正岡子規》」の季節になりました。

         (バラ フカシ ピアノ きこゆ うす づきよ)

 

 

 

 

 

 

 


母の日

2015-05-10 | 気ままなる日々の記録

 5月の第二日曜日は。母の日です。例年家内のところへは息子夫婦から花が,娘からはメールか電話がかかります。

 息子夫婦からの贈物は家内の好みの色や種類をよく知っていてバイオレット色のカラーの鉢植えや小さい花々のフローズンフラワーだったりします。
今年は珍しいスタンディングブーケが届きました。下の方の花瓶
にあたる部分にはゼリー状のものが入っており水の追加は不要と云う新しい優れものでした。
オーナメントには、イチゴが数個ぶら下がっています。
何と心憎いほどの贈物。

   


 今年は30年来行ってきたイチゴの作付を家内が断念していたのです。話した訳けでもないのに、ちゃんと、イチゴの付いたブーケが贈られて来ました。

娘には時々冗談めかして「花より団子」と申しているようですが、今年になって、やっと、ヘヤ―・アクセサリーがメールに追加されたと云っていました。

何であっても子供や孫からのプレゼントは心を和ませてくれます。感謝感謝です。