かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

大晦日からのご報告二つ。

2012-12-30 | 気ままなる日々の記録

 今年は例年になく真面目に剪定作業を片づけてきました。一番厄介な松をもう2本も済ませたからです。松の剪定で大切なのは「足場造り」です。姿勢を崩しての作業はすぐに疲れるし、不安定な姿勢は大怪我のもとです。面倒でも知恵を絞って足場を造り、小まめに足場を作り変えて小刻みに作業を進めました。

         

         

  いずれも右が剪定前、左上は作業の途中で、左下は剪定終了の松です。残りの松は一本だけです。
  松は水分過多を嫌う植物で、どの松も周りに岩を並べて土盛りをして植えてあります。しかし、これが剪定の泣き所で、4本足の脚立は立たないのです。そこから先は知恵の見せ所で、あれやこれや足場を工夫して征服していきました。

 29日の夜、気象情報では30日は終日の雨とのこと。「明日はどうする? 立ち寄り湯にでも行くか?」と問えば、「OK」とのこと。友人が薦めていた「ササユリの湯」を検索したら30日、31日、元旦は休業と出て、迷った末、「恵那グランドホテル」へ行くことに決めました。

        

        

 雨の中のドライブが80分。思いのほか落ち着いた雰囲気の上に、ロビーからの展望が素敵なホテルに到着しました。入湯料は800円だそうですが、昼食を注文すると400円とか。もちろん雨の中を別の食堂へ行く気はなく、昼食もここで摂ることにして、思い切りの“のんびり”を決め込みました。湖の上の濃霧が格別の雰囲気を醸し出していて、2012年の疲れを癒すのにふさわしく、随分の長湯を楽しみました。

  

  写真は露天風呂からのワンっョット。裸体の男はお客さんで、お頼みしたら快く被写体を引き受けてくれ「これでいいかい?」とポーズまで作ってくれました。外は幻想的な濃霧に包まれたの風景。私の撮影力が貧弱で残念です。

 


突然、大騒ぎになりました。

2012-12-26 | 気ままなる日々の記録

 22日の朝、「チョット、チョット、どうしたの?」と聞かれても、本人は「何が?」とキョトン。「眼よ!」とただならぬ気配に鏡を見てびっくり。痛くもかゆくもない。そういえば昨夜、少し眼がゴロゴロした感じがあって「疲れ目にサンテ60」とかいう目薬を注したが、何も変わったことはなかった。

                 

 右は、気持ちの悪い写真(右目)で恐縮です。今流行の“自写”ですが、こうして見ると情けない限りです。22日、23日、24日と生憎の3連休。江南厚生病院へ「急患」とし出かけようかとも思いましたが、痛くも痒くもなく、左目を閉じて見ても、全く視力に変化はありません。直ちに失明、白い杖のように騒ぐ家人に、「チョット様子をみるよ」と答える。微かな記憶で、今では夢か現実か定かでないようなところもありますが、高校生の頃自転車旅行で天理市まで行ったとき、どちらかの眼がこうなって同行の友人が心配してくれたことがあったような気もします。

 25日、近くの眼科医へ出かけました。頂いた病名は「結膜下出血」で「放っておけばよろしい。お薬も出ません」でした。頂いた説明書を左に掲げました。それによると、眼球の前面を覆っているのが「角膜(黒目の前)」と「結膜(瞼の裏からUターンをして白目に前まで)」で、結膜の中には毛細血管が無数に走っているそうです。その毛細血管の一か所が何らかの理由で破れ、出血が起こったのが「結膜下出血」だそうで、ちょうど打ち身をして青あざができたと同じ現象だそうです。

          

 「やれやれ」です。ついでに検査を受けた「白内障」の方は、年相応に順調な「悪化」のようで、次回の免許書き換え前に手術という事態もありうるそうです。こちらのほうは点眼薬を頂きました。

 

 


ここ数日柿の剪定に熱中していました。

2012-12-22 | 気ままなる日々の記録

 寒波が来たり、雨や雪の予報が出たりで、連日年末らしい慌ただしさでしたが、その隙間を狙って、私は、ひたすら柿の剪定に邁進していました。今年は豊作でしたので、その分来年は裏作ということになりますが、それでも“よく面倒を見てやって”来年も沢山収穫しようという魂胆です。

             

 右が剪定前、左が剪定後です。実生の柿の木に富有を接ぎ木した「若い木」で、理想の形(傘を広げて180°回転した形)に仕上げようと張り切っています。

             

 右が「富有」、左が通称「御大典」(昭和天皇が即位したとき記念樹として配られた柿の木:たぶん富有系)です。梯子を下りて見上げると、また「切らねばならない枝」が目につき、際限がありません。

             

 師匠にご指導を仰いだら、「もう少し落としてもいいのではないか。特に“徒長枝”のような枝は上を落としたほうが……」ということだった。「柿の実は、その年に伸びた枝に付く」とのことでした。もう少し手を入れます。

 お詫び : 先回のブログで、「12月14日赤穂浪士吉良邸討ち入り」に関して、「討ち入りをしたのは多分14日未明であったでしょう」    
        と書きましたが、正しくは「討ち入ったのは14日の夜更け、引き上げたのが15日朝」でした。

        弁解の弁。江戸時代は「一日の終わりは日没。夜は一日(翌日)の始まりであるという感覚があって、結婚式などの祝い
               事は全て夜行われた」という話を、どこかで読んだ記憶があり、その感覚が邪魔をしたようです。
        映画『夜明け前』 (島崎藤村原作)が上映されたのは昭和30年ごろだったでしょうか。滝沢修が演ずる「狂気した半蔵」
        は、名演技でしたね。映画の前半で半蔵の結婚式が盛大に行われていましたが、全ては蝋燭と行燈の光に照らされた
        夜でした。
 


霜の朝

2012-12-14 | 気ままなる日々の記録

 12月14日朝、ああ今日は“吉良邸討ち入りの日だ”などと思いつつ起床。あれは旧暦だからまるで季節が違うと云うべきだけれど、確か、討ち入りは14日未明だったよな、間違っても14日深夜ではないはず、などと独り言。庭に出たら今季初の大霜、外気はピ~ンと張りつめた冷さだったが、スキー場のように空気が美味い。菜園に足を延ばせば朝日を浴びて霜がキラキラと輝いていた。
    

 可愛い野菜たちが頑張っていて健気に見える。今年はなぜか虫害も少なくどの野菜もおおむね豊作で毎夜鍋を賑わせている。来春の摘み菜もよく耐えていてくれる。

             

             

 今日は久しぶりの快晴。早朝の空に雲一つない。放射冷却が見事な霜の芸術を造ったようだ。カメラをぶら下げ裏へ廻った。

             

 

 木陰にまだ残雪のある我が家の裏庭、赤や黄の実たちが盛んにおしゃべりをしているようだった。南天に千両に夏みかんだ。夏みかんは数年前に植えたもので、まだ小さな木だが食べきれないほどよく生(な)る。この実から市販のものに負けない程のジャムができるようになったとかで、苗を植えた。木が若くて年に数個しか生らなかった頃はよく作ってくれたが、沢山生るようになったら作らなくなった。ジャム作りはなかなか手間のかかる作業らしい。 

 


11月29日、近くの友人と“紅葉狩り”に出かけました。

2012-12-05 | 気ままなる日々の記録

 かつて郷土史の本を作った仲間(私は途中参加)と“紅葉狩り”に出かけました。行き先は滋賀県東近江市の「臨済宗永源寺派大本山永源寺」と岐阜県海津市南濃町の「臥龍山行基寺」です。

 

 上が永源寺の山門です。創建は康安元年(1361)近江の領主佐々木氏頼が、高僧寂室元光禅師の高徳を慕い、風光明媚なこの地に伽藍を創建し禅師を迎えたことによる。寂室元光禅師の名声は高く、当時は2千人あまりの修行僧が集い、後光厳天皇や足利義光らも深く崇信、寺領など多くを寄進したと伝えられています。戦国時代には度重なる兵火に逢い衰退の時代もありましたが、寛永8年(1631)妙心寺の別峰紹印禅師によって再興され今日に至っています。紅葉の名所。

  

 上が「臥龍山行基寺」の山門です。この寺は徳川時代美濃高須藩(松平家)の菩提寺です。美濃高須藩は尾張徳川家の連枝(れんし)で、初代藩主は尾張徳川家の第二代(家康の孫)の二男(家康の曾孫)松平義行公です。従って3万石の小藩でしたが江戸城では御三家を除けば将軍家筆頭の家門であり、尾張徳川家に後継者が絶えた時には相続人を出すべき任務を負い、武芸・学問・作法に厳しい家風を保持し続けた名門でした。事実、尾張62万石17代藩主のうち4代がこの藩出身でした。また他藩から養子に迎えられることも多く、幕末の戊辰戦争に大きく関わった尾張藩主の徳川慶勝、会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬らは、ここ高須藩松平家の三兄弟です。

  紅葉は見事でした。落ち着いた境内は観光客もまばらで、幽玄の静寂と眺望を満喫しました。

  以下フォトチャンネルに挑戦しました。 

 

「永源寺」と「行基寺」へ紅葉狩りに出かけました。


中山道の「美濃赤坂宿」へ行ってきました。(その2)

2012-12-02 | 気ままなる日々の記録

 翌日は生憎の雨天。予定の散策を少し縮小しましたが、おおむね「傘をさして歩けばいい」というメンバーで、芭蕉記念館から大垣市内散策、最後に大垣城を訪ねたのち帰路につきました。

       

          

 「奥の細道むすびの地 記念館」として今年の4月にリニューアルオープンした大垣市肝いりの記念館。3D映像あり、古文書の展示あり等で見ごたえのある記念館でした。個人的には「人間芭蕉」の紹介ということで、彼が長く痔を患い、胃腸が弱くよく腹痛に悩まされ、酒好きだが女性が苦手であったことなどが紹介されていたのが面白かった。

              

              

                            

  上の写真は市内散策のときに撮ったスナップです。人口は16万の大垣市にしてはキチンと整備された遊歩道があり町全体に品格がある。如何に都市の風格やエレガントさを生み出すか。これはなかなか難しい問題だが決め手はやはり市民の価値観やセンスが深く関係していくると思われる。と。やはりお城の有無に起因するのだろうか、興味深いテーマではある。

               

  2日とも昼食は予約で、座敷に上がって仲居さんと軽口を叩きながらの和定食でした。幹事さんに感謝。

  追記 : 厭な仕事のその後。

  

  これでもう「不法投棄」が無くなることを祈るばかり。それにしてもフェンス内の除草の仕事が増えました。 

 


中山道の「美濃赤坂宿」へ行ってきました。(その1)

2012-12-01 | 気ままなる日々の記録

 歴史に造詣の深い友人の企画で「美濃赤坂宿」へ出かけました。初日は現地ボランティアガイドの人と一緒にゆっくりと巡り、簡易温泉宿で一泊、翌日は新築なった大垣市の芭蕉記念館へ寄りさらに大垣城周辺を散策するという行程でした。
   

 
 赤坂宿は、現在の大垣市の北西約12キロにあり、江戸時代は中山道の宿場として大いに賑わっていました。上の浮世絵は歌川広重の「中山道69次赤坂宿」の図です。ただし、実際には左手上部に金生山(きんしょうざん:217.1m) が見えるはずなのに書かれていないので、広重は“想像で描いたに違いない” と云われています。

 中山道がもっとも注目されたのは「皇女和宮降嫁」の行列が中山道を通った時です。

                             

 【皇女和宮 = 第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁に際し中山道を通って江戸へ向かわれたが、その途中、信州の小坂家で休息された折、小坂家の写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真。ポジのガラス乾板で軍扇に収められている。これを複写したものを小坂家の小坂憲次さん(前衆議院議員)のご好意により、阿弥陀寺に寄進された。】(上の写真の説明文)

 幕末、幕府の弱体化と尊皇攘夷派の台頭による混乱の中で「公武合体派」の画策によってよって推し進められたのが天皇の妹を将軍の嫁に迎えるという政略結婚でした。皇室も幕府も民衆にその力を誇示する必要があり、お輿入れの行列は盛大を極めました。街道の整備から行列参加者や警備の人まで20万人が動員されたと云います。面白いのは、公武合体反対派の浪士が行列の中から和宮を奪還する計画があったとかで、和宮の偽物が3人も用意され、どのお駕篭が本物の和宮か分からなくしていたといいます。

 最初に訪れたのは「赤坂港」でした。港といっても海に面しているのではなく、船がたくさん寄るところという意味です。当時の大動脈は河川で、事実ここから揖斐川経由で多くの船が桑名へ出ていました。

            

 赤坂が栄えた理由の一つに「石灰石の生産」がありました。石灰石から消石灰が作られ、消石灰は白壁の材料としてお城にも町屋にも膨大な需要があり、そのうえ土壌改良剤として農家にも販売されていました。

 ボランティアガイドがいい人でした。歴史が好きで、史実から下世話な話まで豊富な知識をお持ちで、その上ものすごく郷土を愛しておられる。説明は控えめだが、質問には丁寧なお答え。そのガイドさんによると美濃赤坂は日本史の上で三度注目されたそうです。第一回が壬申の乱、大海人皇子はここで兵を挙げられた。第二回目が天下分け目の戦い、徳川家康はここで大垣城の石田三成と対峙し、作戦を駆使して関ヶ原で勝った。第三回目が、幕末薩長討幕軍が赤坂を通過するとき、家康直系で親藩の赤坂城主が勤王派に味方した。これによって東海道の各藩は勤王派になった。

            

 上の写真が天下分け目の合戦直前に家康が居を構えた“簡易城郭”で、「お茶屋屋敷跡」。家康がここに居を構えたのは壬申の乱の大海人皇子にあやかりたいとの思惑からだと云われていて、事実、石田三成を関ヶ原へおびき出すことに成功したと云われています。(三成が大垣城に籠城していたら勝ち目はなかったそうです)

             

 右が金生山明星輪寺。持統天皇ご勅願により鎮護国家の道場として686年に創建され、ご本尊は虚空蔵菩薩。その後雷火による消失をはじめ幾多の災難に悩まされたが、その都度庶民や住僧の努力によって再建された。左は寺の裏手にある露出した石灰石で諸仏が刻まれていた。

 

 金生山から東に広がる西濃地方を眺望したしたところ。貴重な地下資源である石灰石や銅鉱石の産出に恵まれ、肥沃な農地と物流の大動脈しての河川にも支えられ、その上京都に近いこの地方が豊かな歴史を刻んだ地域であることがよく分かった。(前篇終わり)