歴史に造詣の深い友人の企画で「美濃赤坂宿」へ出かけました。初日は現地ボランティアガイドの人と一緒にゆっくりと巡り、簡易温泉宿で一泊、翌日は新築なった大垣市の芭蕉記念館へ寄りさらに大垣城周辺を散策するという行程でした。
赤坂宿は、現在の大垣市の北西約12キロにあり、江戸時代は中山道の宿場として大いに賑わっていました。上の浮世絵は歌川広重の「中山道69次赤坂宿」の図です。ただし、実際には左手上部に金生山(きんしょうざん:217.1m) が見えるはずなのに書かれていないので、広重は“想像で描いたに違いない” と云われています。
中山道がもっとも注目されたのは「皇女和宮降嫁」の行列が中山道を通った時です。
【皇女和宮 = 第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁に際し中山道を通って江戸へ向かわれたが、その途中、信州の小坂家で休息された折、小坂家の写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真。ポジのガラス乾板で軍扇に収められている。これを複写したものを小坂家の小坂憲次さん(前衆議院議員)のご好意により、阿弥陀寺に寄進された。】(上の写真の説明文)
幕末、幕府の弱体化と尊皇攘夷派の台頭による混乱の中で「公武合体派」の画策によってよって推し進められたのが天皇の妹を将軍の嫁に迎えるという政略結婚でした。皇室も幕府も民衆にその力を誇示する必要があり、お輿入れの行列は盛大を極めました。街道の整備から行列参加者や警備の人まで20万人が動員されたと云います。面白いのは、公武合体反対派の浪士が行列の中から和宮を奪還する計画があったとかで、和宮の偽物が3人も用意され、どのお駕篭が本物の和宮か分からなくしていたといいます。
最初に訪れたのは「赤坂港」でした。港といっても海に面しているのではなく、船がたくさん寄るところという意味です。当時の大動脈は河川で、事実ここから揖斐川経由で多くの船が桑名へ出ていました。
赤坂が栄えた理由の一つに「石灰石の生産」がありました。石灰石から消石灰が作られ、消石灰は白壁の材料としてお城にも町屋にも膨大な需要があり、そのうえ土壌改良剤として農家にも販売されていました。
ボランティアガイドがいい人でした。歴史が好きで、史実から下世話な話まで豊富な知識をお持ちで、その上ものすごく郷土を愛しておられる。説明は控えめだが、質問には丁寧なお答え。そのガイドさんによると美濃赤坂は日本史の上で三度注目されたそうです。第一回が壬申の乱、大海人皇子はここで兵を挙げられた。第二回目が天下分け目の戦い、徳川家康はここで大垣城の石田三成と対峙し、作戦を駆使して関ヶ原で勝った。第三回目が、幕末薩長討幕軍が赤坂を通過するとき、家康直系で親藩の赤坂城主が勤王派に味方した。これによって東海道の各藩は勤王派になった。
上の写真が天下分け目の合戦直前に家康が居を構えた“簡易城郭”で、「お茶屋屋敷跡」。家康がここに居を構えたのは壬申の乱の大海人皇子にあやかりたいとの思惑からだと云われていて、事実、石田三成を関ヶ原へおびき出すことに成功したと云われています。(三成が大垣城に籠城していたら勝ち目はなかったそうです)
右が金生山明星輪寺。持統天皇ご勅願により鎮護国家の道場として686年に創建され、ご本尊は虚空蔵菩薩。その後雷火による消失をはじめ幾多の災難に悩まされたが、その都度庶民や住僧の努力によって再建された。左は寺の裏手にある露出した石灰石で諸仏が刻まれていた。
金生山から東に広がる西濃地方を眺望したしたところ。貴重な地下資源である石灰石や銅鉱石の産出に恵まれ、肥沃な農地と物流の大動脈しての河川にも支えられ、その上京都に近いこの地方が豊かな歴史を刻んだ地域であることがよく分かった。(前篇終わり)