筆者は昭和11年生まれである。現在80歳。思えば戦前の小学校風景を知っている最後の世代である。そこで、①学校での想い出と②子供の間で流行していた歌などをできるだけ忠実に書いて何かのお役に立てたらいいが、と云う気持ちで書いておこうと思う。
①学校での想い出。
毎朝朝礼集会があった。
生徒たちは登校するとすぐに、カバンを教室のうしろに造られた整理棚のような所へ入れて、運動場へ出なければならなかった。運動が苦手で、教室でゲームなどしていると、先生にひどく叱られた。子どもは運動場に出て走ったり、鉄棒をしたりして体を動かし丈夫な体に鍛えなければならないという、考えが漲っていた。用務員のお爺さんがカラン・カランとカネを振ると生徒は直ちに遊びを止めて指令台の前に整列しなければならなかった。
問題は雨が降り出しそうな空模様の日である。そんな時も原則整列で、ザーッと降り出すと先生が出てこられて「解散」と号令を掛けられて初めて教室へ逃げ込むのだった。
そんなにまでして何故朝礼をしたかであるが、朝礼の最初の行事は「皇居遥拝」だった。教頭先生がマイクの前でしせいを正し「整列」といわれると担任の先生が前に立たれ列がまっすぐになっているかを点検され、それが済むと教頭先生が「皇居遥拝、一同右向け!右」といわれる。これを全校生徒がキビキビやらないと、何度も「やり直し!」が命ぜられる。上手くできると、教頭先生が「一同礼!」といわれる。このときは「最敬礼」に決まっている。つまり、天皇陛下に朝のご挨拶をするわけだ。それが済むと「学校長訓辞!」となる。
朝礼で忘れられないのが昭和20年8月16日の朝礼である。この前日に例の「玉音放送」があった。我が家も祖父を除く家族全員(祖父は用事で出かけていたが)がラジオの前に立っていた。
この放送うが例の「堪えがたきを耐え、忍びがたきをしのび・・・・・」というポツダム宣言受諾の天皇陛下のお言葉であった。翌日が夏休み中の全校登校日であった。その日の朝礼で、校長先生に替わって「訓示」をされた教頭先生が、涙声で「日本は戦争に負けました」と絶叫され、天皇陛下に申し訳ない。陛下にお詫びし謝らなければならないと云われて、皇居遥拝を指示された。
朝礼が済んで教室へ入ると若い女の担任の先生が本当に涙を流しながら声を詰まらせて「戦争に負けました」と云ってオイオイ泣かれました。ラジオの前でラジオに向かって最敬礼していた我が家の大人たちは誰も泣かなかったし、父など「もう空襲はないぞ」と明るい声で言っていた。当時父の世代は「大正デモクラシー」と呼ばれた時代に青春時代を送っていて、西洋の政治や科学技術についてもかなり正確に知っていたようである。日本を狂わせたのはもう一つ上の世代であった。(T)
②思いだすままに、当時子供が歌っていた歌の歌詞を書いてみます。忘れた所は??とします。お許しください。
♪♪
「勝ち抜く僕ら少国民、天皇陛下の御為に死ねと教えた父母の熱い血潮を受けついでしっかりやります勝利まで???』
予科練の歌
若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に碇(いかり)。今日も飛ぶ飛ぶ霞が裏にでっかい希望の雲が湧く。・・・・
今日増産の帰り道、皆で摘んだ花束を英霊室に供えたら「次は君らだ分かったかしっかりやれよたのんだぞ。胸に聞こえた神の声。」
当時の小学校には奉安殿と英霊室があった。奉安殿は天皇と皇后のお写真が保存されている神社風の建物。英霊室は、その小学校を卒業され戦死されたお方の御霊をお祀りする神社である。
生徒はその前を通る時は足を止め、帽子を取って最敬礼しないと先生にひどく叱られたものである。その小学校の卒業生が兵隊になって出征されるときは、小学校に国防婦人会や、在郷軍人会の人たちが集まって壮行会を行っていた。その後長い竹竿に「祝○○君出征」などと書いた旗竿を立てて最寄りの駅まで送ったものであった。敗戦間際にはこうしたお祭り騒ぎは自粛されたが、オソマツ君の脳裏にはその旗竿が焼き付いている。
戦死する可能性が高い戦地へ送られるのにお祭り騒ぎをされても一緒に騒ぐ気分でもないだろう、ということが、子供心にも分かったからであった。当時は日本中が発狂していた。
♪♪子供らしい歌も歌っていたラジオでも聞いた覚えがあるが、殆どは母親から教えられたと思う。
[明かりを付けましょぼんぼりに、お花を挙げましょ桃の花、五人囃子の笛太鼓 今日は楽しい雛祭り。
高校生になるころまでひな祭りの前には家でお餅を搗いていた。2月の終わりごろようやく日差しも強くなり田圃のあぜ道にはヨモギが新芽を出していた。それを、手提げ篭一杯取ってきて洗って蒸してお餅に搗き込んでいた。グリーンの綺麗なお餅が出来ていた。赤いお餅は市販の紅粉を搗き込んでいたと思う。それに黄粉を搗き込んだお餅を搗けば赤、黄、緑のお餅が出来て、これが、3月3日の定番お菓子であった。戦後で何もない時代であったが何でも自家製で昔通りの行事を大切に守り、家族一同の笑顔が絶えない家族であった。忘れられない想い出である。(T)
(T)