かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

柿の葉について考える

2010-10-24 | 気ままなる日々の記録
 私の家には4本の柿の木があります。1本目は最も古い「ヤシマ」、2本目が、昭和15年ごろからある「富有と思われるもの」、3本目が戦後植えた「富有」、最後が、私が3年前に富有を接ぎ木した「接ぎ木富有」で、台木は実生の渋柿です。

      

 去年と今年、2本目と3本目の柿に、早々と葉が落ちてしまうという「事件」が起こっています。他家の「富有」の写真を撮らせてもらって掲載しました。明らかに我が家の柿は異常です。葉が早く落ちたせいで実が小さく、その上我が家の柿に鳥が集まり収穫期の実を啄み、穴をあけてしまいます。

      
 
 

なぜ早々と葉が落ちてしまうのか。野菜作りに関する私の先生のご意見では、①木が「老木」になっているので、施肥や土作りを工夫する、②老木なのに着果数が多すぎる。③剪定を学び、勢いのいい枝を育て着果数を減らすべきではないか、とのことでした。

そう言われてよくみると、接ぎ木をした方の柿は幹に勢いがあり葉も残っています。

今年の冬は、柿の本場へ出かけ剪定後の写真を撮ってきて、剪定の勉強をしようと思っています。(写真下段右は接ぎ木をした柿の木です)


徳山ダムへ行って来ました

2010-10-21 | 
 報告が遅くなりましたが、109日友人たちと徳山ダムを訪ねました。このダムは堤高161m、堤長427m、総貯水量6億6千万立方米(浜名湖の水量の2倍とも)のロックフィル式多目的ダムで、日本最大規模を誇っています。総工費3,500億円、計画策定から完成までに32年を要し、その間の政治・経済情勢の変化に伴う紆余曲折でときどき紙面を賑わせた話題多きダムです。現在も、付帯事業からの撤退を河村名古屋市長が表明して問題になっています。付帯事業というのは、このダムの水を全長44キロ先の木曽川まで地下水路等で運び名古屋市の水需要に応えようという事業です。ところが、河村市長は「名古屋市は現在も将来も水は余っている」と言いだしたのです。

     

     

 そんなことを思い出しながら堰堤に立ちましたが、上流に広がる美しい景観と頬をなでる心地よい空気の流れに身も心も洗われ、俗世の悩みは瞬く間に消え去りました。紅葉シーズンは11月の中旬とか、この日は行楽客もまばらで、ゆったりとした時間を楽しむことができました。このダムの完成で、徳山村は全村水没。

     

                  
 
 

 ダム湖の傍らに建てられた資料館に展示されてた徳山村のスナップ写真が、うっとりとしていた私の心を激しく揺さぶりましたこの写真の中には、現在私たちが失ったものが溢れています。笑顔・連帯・扶助・使命・質素と豊かさ、ああもう言葉では表せません。


日々の雑事(10月初旬)

2010-10-14 | 気ままなる日々の記録
       

 10月4日、柿を収穫しました。右の写真はこの柿の木の根元、丸い土管は昭和30年代までの我が家の井戸。この井戸が掘られたのは江戸時代、大正期には屋根と滑車が付いたようですが、水を汲み上げる容器は木の桶で、いわゆる「つるべ方式」、ガチャガチャ汲むポンプになったのは昭和初年で、このとき土管が据えられました。注目したいのは柿の木の根元で、土管設置のために切られた跡が残っています。今収穫している柿は切られた根元の横から育った木に実をつけたものですが、この幹もやや傾き井戸屋形の屋根を壊しそうなので、三代目の幹(写真では楠の葉の間)を育ていて、近い将来今の幹は切るつもりです。この柿は、私が子どものころから「ヤシマ」と呼んでいます。「ヤシマ」の味は素朴で、友人には「江戸の味だ」と自慢、あとバケツに2~3杯は採れます。
    

              

 市から、防犯のためのポスターを門口に掲示するよう指示がありましたが、我が家の場合、適当な掲示場所がありません。そこで古材を使って掲示板を作りました。右の写真が道路側から写したもので、左の写真が楽屋裏です。楽屋裏の写真にあるステンレス・ボックスは郵便受。使用した古材は数年前、物置を解体したときに残しておいた建具の一部です。

白山社の例祭(大祭)

2010-10-14 | 気ままなる日々の記録
       

       

 10月3日は白山社の例祭(大祭)。今年は氏子総代という係だから9:00から準備。掃き掃除からモップかけ、続いて緋毛氈敷き・幕張・供物や雅楽器の準備と大忙し、10時30分からの祭礼には袴をつけて参列。この祭礼には両区長を始め20名に及ぶ班長が参列し、古式のゆかしく豊饒に感謝し平穏と繁栄をお祈りしました。写真撮影は準備段階まで。来年は式典も記録に残したいと思っています。

あゝ 耕作放棄地!

2010-10-07 | 随想
                   
                    
                   

 上の写真は今日私が除草薬を散布してきた「耕作放棄地」です。

 

 かつて畑であったところが雑草で覆われていますので、年4回、草刈りまたは除草薬の散布をしています。最初が4月下旬、次が6月下旬、そして9月の中頃と11月下旬です。隣の畑が耕作地の場合は草刈りを、そうでないところは6月と9月に限り除草薬散布をしています。今年は9月になっても猛暑続きであったので9月分が今日までかかりました。一回の作業を終えるのに1週間から10日かかります。この作業は私にとってかなりの重労働で、毎回憂鬱な気分になりますが、自分に課せられた義務だと観念して続けています。

 

 少し前までは「休耕地」と呼ばれていたものが、いつの間にか「耕作放棄地」と呼ばれるようになりました。マスコミのネーミングでしょう。しかし、私はこの呼び名に本質を見誤った悲しい響きを感じています。せめて「耕作断念地」と呼んで欲しいと思いますし、もっと言えば「落涙断腸地」です。たった10年ほど前までは「休耕地」を耕してくださる人が近所にいました。もちろん「お礼」などなしで「どうぞどうぞ」と使っていただいていました。しかし耕作者の高齢化に伴い返却され、その後の耕作を希望される人がいなくなったのです。

 

 何百年にもわたって、地域の人々や我が家の先祖が、懸命に護り耕してきたこれらの農地、多くの人の命を支えた豊穣の農地を、かくも無残な姿にしている現代という時代や自分に慙愧の念を禁じえません。有効に使って下さる人がいたら大いに使って頂きたいと思っていますし、お譲りしてもいいとも思っています。しかし、農地は法律上自営農家しか買うことができないそうです。でも、この地域では自営農家はもうほとんどありません。その上、農地には家も工場も建ちません。その意味で農地は「再利用不可地」と呼ぶべきでしょう。農地は今や溶かすことが禁じられた金属ゴミです。法律が地域の実情や時代の変化に合わなくなっていて、土地という貴重な資源が再生不能なゴミになっています。私はこのゴミのために固定資産税を払い、ご近所にご迷惑をおかけしないように草を刈り、そっと薬剤を散布しているといえなくもありません。


                                               

  上の写真は、今日除草薬を散布した畑の東側の境界で、竹藪になっています。ここは最近竹藪になってしまった道路(道路予定地?)です。しばらくすると竹との戦いが始まるかと思うといよいよ憂鬱です。