かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

ネパール語は日本語と似て擬態語が豊かだそうです。

2015-04-28 | 気ままなる日々の記録

毎日新聞4月28日号の「余禄」に見出しのようなことが載っていましたので、ついでに紹介します。

 ネパールでは、月の光は「タハタハ」と照り、星は「チャムチャム」と瞬(またた)くといいます。美味しそうな匂いは「まぐまぐ」と漂(ただよ)い、風は「さらさら」とそよぐ、そうです。オソマツ君はこれを読んで一層ネパールに親しみを感じました。記事の中で一番気に入った擬態語は、怖いときは「ダグダグ」と震えるのだそうです。日本語の「ブルブル」より「ダグダグ」震えた方が一層怖そうにおもえますが、如何でしょうか?

 首都カトマンズでは、今回の地震で倒壊した建物が多いそうです。あの人懐っこいネパールの人々が「ダグダグ」震えながら倒壊した建物を取り囲んでおられるかもしれないと思うと胸が張り裂ける思いがします。日本からの救援隊の皆さん、頑張ってあげてください、と祈るばかりです。


ネパールの大地震に心を痛めているオソマツ君です。

2015-04-27 | 気ままなる日々の記録

オソマツ君は10年ほど前友人のSさんに誘われてネパールを訪問し2週間ほど滞在したことがあります。その時知り合ったネパールの若い人たちは無事だったろうか、ご家族にけがはなかっただろうかと、一人ベットの上で心を痛めています。Sさんは京都大学のご出身で、犬山のモンキーセンターで、サルの社会における各種のルールを研究しておられる研究者でした。

 そのSさんに、大学の恩師からあるミッションが与えられたと云います。それは、最貧国ネパールを何とか救えというミッションだったと云います。ネパールの貧困が続くと、そのうちに、中国から毛沢東派と名乗る武力革命集団がやってきて、暗躍し始めヨーロッパを始め日本やアメリカからヒマラヤ山脈を愛する登山家がネパールを訪問したとき襲われたりするようになり、人類の歴史にとってマイナスの時代になってしまう。それを事前に食い止めたいと恩師はお考えになられたといいます。

 発展途上国の援助で一番悪いのがお金を時の政府にあたえることだそうです。悪徳商人が甘い汁を吸い取るだけで、国民が潤わない。

 二番目に悪いのが、建設機材を贈ることだそうです。たとえばブルトーザーを何台も贈与しても、メンテナンスができないので、数年で鉄くずになってその辺に放置されることになってしまいます。

一番いい援助は現地の若者とともにいい事業を起こし、若者に複式簿記を教え、事業計画や、資本金の集め方を教え、責任者の決め方や、責任者の権限を教えて、若い人が自国の発展に立ち上がるためのノウハウをおしえてあげることだといいます。今風に言えば、現地の若い人たちに実践を通して「簿記とコーポレイト・ガバナンスを教えることだ」ということになります。

 Sさんたちは実際に現地の若い人たちとお金を出し合い小さな株式会社を立ち上げ、皆に喜ばれるものを生産し、みんなが買える値段で販売し、従業員を雇い、給料を払い、株主配当も支払う一切の規則や会計処理や企画、経営を若い人たちに教えたといいます。

 最初に興した会社は山を歩き、いい粘土の取れるところを探し、そこから粘土を掘り出し、その粘土を型にはめて、土管の形にして、それを焼いて土管を造り、次の会社でその土管を使って各家庭のかまど(竈)に煙突を創る工事をすることにしたそうです。ネパールの各家庭には土で作った竈が家の中にありましたが、煙突はなく湿った薪を焚くとすごい煙が出て、ネパールのお婆さんは眼が悪いか喘息など、呼吸器の悪い人が多かったといいます。Sさんたちが帰国してからも二つの会社は順調に大きくなり、雇用が生まれ給料が支払われ、家庭が潤い、彼らが企画する会社には株主になることを希望する人も多くなり、確実にネパールのGNPの拡大に貢献したといいます。

 Sさんたちが帰国して数年が過ぎ、ネパールの若い人たちがSさんに遊びに来い!。会社を見に来てくれと再三のお誘いがあってSさんも行こうと思い立ち、ついでに親善民間交流と名前を付けてオソマツ君たちを誘ったというわけ。

ネパールで思い出すことは第一に村の子どもたちがはじめて見る私たちにもキチンと両手を合わせて「よく来てくださいました」と云う意味の言葉をネパール語で云ってあいさつしてくれたことです。ネパールは仏教国で、すぐに手を合わせます。手を合わせるのは感謝のいみだそうです。次に思い出すのは、何と言っても8千m級の山が連なる白銀の壁に朝日が当たって神々しく光る圧倒的な風景です。日の出前に展望台に立って日の出を待ちます。東の地平線から太陽の光が差し込んだ時の一瞬の感動は言葉にできません。天の一角からベートーベンの交響曲が聞こえてきた感じとでもいうのでしょうか。まさに壮大な地球の自転を見せて頂いた感じです。

ネパールの首都はカトマンズでオソマツ君たちが滞在していたのがポカラと云う町でした。まあネパール全体と云ってもいいと思いますが、ステキなお茶の産地です。標高が高いので毎 朝濃い霧が発生します。10時ごろには霧は晴れますが、紫外線は強いのです。これが、いいお茶をそだてるのだそうです。お茶と云えばインドのダージリンですが、ネパールもダージリン(インド北部の地名)もおなじ気候で、ネパール産のお茶もダージリン茶のブランドで売られているといってもいいような、状況です。ネパールの農産物はお茶とトウモロコシとジャガイモといったところです。コクのある美味しいお茶をみんなよく飲んでいます。

 出発前にSさんから連絡が入りました。「引き出しをひっくり返しそこから出てきた文法具ーボールペンやシャープペン、シャープペンの芯や消しゴム、三角定規や分度器。コンパスや小さな定規、全部持って行って子供たちへのおみやげにしましょう・同じように、各家の道具箱をひっくり返し、使われくなった、ドライバーや金槌、切れなくなった折り畳み式鋸やくぎ抜きや鑢などを持って行って、青年たちへのお土産にしましょう、と。事実、とても喜んでくれました。針金一本でもアルミ線でも銅線でもステンレスせんでも、ネパールでは貴重です。ノートやメモ用紙でもそうです。日本は、物を粗末に扱いすぎていると思います。

 私たちは、山小屋のような小屋で寝泊まりしていて、連日Sさんが育てた若者たちが女の子を連れて訪ねてきて、料理を作ってくれるので、キャンプ生活のような食事と散歩を楽しみました。会話は、怪しげな日本語と英語、他とは身振り手振りです。日本語の上手なこもいました。あのよく笑った若者たちは怪我がなかっただろうか、多くがいいお父さんやお母さんになっていることだが、その家族に怪我はなかっただろうか。とおもうばかりです、もし彼らが日本に来たらうちへ泊めてやってもいいし奈良の大仏ぐらいへ連れて行ってやりたいが、こんな体になってしまって自分が車いすでは、何ともなりません。

 


大正琴の演奏会がありました。

2015-04-27 | 気ままなる日々の記録

大正琴の演奏会がありました。正しくはハーモニカとの合同演奏会でした。演奏された曲目は、

童謡をはじめ「青い山脈」や「花は咲く」など、よく知られた親しみやすい曲ばかりでした。驚いたことに演奏者は聴衆と同年配で、大正琴練習教室の皆さんが先生と一緒に来てくださった感じで、演奏中に体で表現されていた意欲や集中力に圧倒されました。

    

 最後の写真の演奏者は男性で、琴もちょっと違う音色のものをつかっておられました。大正琴にもいろいろの機種があって、ある機種は、メロデイーを演奏し、他の機種は低音や高音の伴奏と云う役割分担があるようでした。

 

 

 


食文化としてのお寿司

2015-04-25 | 気ままなる日々の記録

世界の三大食文化と云えばフランス料理と中華料理と日本料理ということになります。その日本料理の中の一つのジャンルとしお寿司を考えますと、他の二つと大きく異なる点があることに気付きます。それは他の二つが王様や貴族によって育てられた食文化であるのに対してお寿司は江戸時代に江戸の町人によって育てられた食文化であるという点です。江戸の町人と呼ばれた人々は、主に商店主や商品のブロウカーで日常の仕事は番頭さんと呼ばれた人に任せ自分はお金を使って趣味に興じ時代の流れや流行の変化を肌で感じて商売に生かしていた人たちです。彼らは俳句に興じ茶道や水墨画や和算と云う数学にも取り組んでいました。今日的に言う「高度な文化人」だったのです。この人たちが育てた食文化としてのお寿司や日本酒は日本が世界に誇れる逸品だと思います。

サンフランシスコのゴールデンゲイト・ブリッジを北向きに渡って最初に入る街がサウサリートと呼ばれる地方で、このあたりは全米でも有名な別荘地です。気候温暖、風光明媚、四季を問わず窓を開けると心地よい浜風(夏は涼しく冬は暖かい風)が入るからです。ここに日本人が経営しているお寿司屋さんがあって、江戸前ずしを握っていて寿司好きのアメリカ人でいつも混雑しています。アメリカの寿司屋さんは中国人経営のインチキが多いのですがここは本物で、それを当のアメリカ人がよく知っています。あるとき、此処に入ったら「カリフォルニア巻」という巻き寿司がメニューに出ていて、これはなんですか、と聞いて試に食べてみたことがあります。

 巻きずしを巻くときと同じように簀子に最初から寿司ご飯を敷いてその上に海苔を敷いてその上にアボガドの棒切りを置いて、それを芯にして巻いた巻きずしのことでした。オソマツ君は決して美味しいと思いませんでしたが、家内は美味しいとかイケるとか言っていました。何でもそこの大将はこれが今アメリカ人に大人気だとか言っていました。約15年ほど前のオソマツ君の予想では、それほど人気はでないだろうと思っていましたが、予想は見事に外れて、今では日本の大きなスーパーで「カリフォルニア・ロール」と云う名前でアボガド巻が売られてているそうです。マイッタ、マイッタ、です。

 オソマツ君は。「これは邪道だ」などと云って怒る気はありません。これを「江戸前」と云われては困りますが、「サウサ前」とでも云って呉れて、みんなが好きならそれはそれでいいと思うのです。

 


今日は「お寿司」の日でした。

2015-04-25 | 気ままなる日々の記録

今日は土曜日でお風呂の日でもありました。以下その時の会話。Oはオソマツ君でCはお風呂のケアー夫人。

O「今日はお寿司を食べに行く日だから11時10分にはお部屋へ戻らないといけないんだけど」

C「時間のことなら大丈夫、それより、どこへいくの、いいなあ~。」

O「車いすの人も、そのまま連れて行って下さるそうです。だから、どこのお寿司屋さんかしりません。それより、僕は、お寿司を頂くときは必ずお酒を飲んでいたけど頼んでもいいかしら?」

C「いいと思うよ。でもね、付添いの方に小さい声で頼んでみたら?小さい声でだよ、きっといいと思うわよ」

O「口取りはホタルイカかなあ。」

C「ああそうだ。もう。ホタルイカがでているよね。白魚もでてるかね。いいなあー」

O「僕は廻らない寿司屋では、小鉢の酢の物を頼んで、お酒は常温酒を頼んでいた」絶対そのほうが美味しいから。」

C「お酒は絶対燗のついていないのよ。燗を付けると味が消えて匂いがきつくなるだけ」

O「お~、いいことおっしゃる!」

C「私はね、酢の物でも。その上にお砂糖と醤油を2~3滴落とした味が好きなの。うう~ん、もうだめ。今日は、帰りに大きな魚屋さんに寄ってホタルイカか白魚を買って帰り、酢の物を造って、晩酌をしよ!」

O「いいですね。ご夫婦でサシツ、ササレツですか。」

C「だめだめ、うちの人は1本飲んだだけで、真っ赤になってだんだん大きな声を出すのよ。

もっと、しんみり飲みなさいって、いってるの。私はしんみり、3~4本飲む方」

O「いいですね~」

と云う調子であっちでも、こっちでもお寿司屋さんの話でもちきりでした。

 

オソマツ君の初めての外出先が大きなお寿司屋さんで、よく混んでいました。だって、凄くおいしい、天ぷらとお寿司で、冷酒の注文も成功し、この世の極楽でした。

 

C「それにしても、どうしてホタルイカと、白魚が同じ時期に取れるんでしょうね。一方が春ならもう一方は秋に取れれば両方ゆっくり楽しめるのにねえ。」

O「それはそうだけど、ホタルイカや白魚の方にも都合があるからね。両方とも本来は富山湾の深いところに住んでいるらしいよ。でもそこで卵を産むと卵が全部他の魚に食べられちゃうから、危険を冒してお母さんは浅瀬に来て産卵するみたいだねえ。浅瀬に来ると自分が鳥に食べられちゃう危険があるが卵を護るために来ているみたいだよ。それにね、春になって日が長くなると、浅瀬では水温が上がって植物性プランクトンが大発生していて、卵から稚魚が生まれたときも食べ物に困らないという利点もあるみたいで、お母さん魚はこの時期に危険を冒して産卵に来ているみたい。」

C「魚も人間もお母さんは大変だねえ」

O「そうだね。命をこの世に送り出すんだから。人間もあまりたくさん、摂りすぎるとホタルイカも白魚も絶滅してしまうから、少しだけ摂って、僕たちも少しだけ頂くようにした方がいいてことらしいよ」

 

 

 

 

 


今日お風呂で、大声で「ィジョウお願いします!」と叫ばれて、ビックリしました。。

2015-04-23 | 気ままなる日々の記録

オソマツ君は今のところ、火、木、土、の10時半からお風呂です。衣服の脱着はすべてケアさん任せで大勢のケアさんに大変お世話になっています。今日お湯から上がって、上がり湯を掛けて貰った後、衣服を着せてもらっているとき、担当のケアさんが、大声で「ィジョウお願いしまーす。と云われたら隣の部屋で仕事をしておられたケアさんが「ハーイ!」と答えられた。私は何事が起こったかと驚きキョロキョロと異常事態を探し「何なのとお聞きする始末。正解は異常ではなく、移乗でした。聞きなれない専門用語でした。つまり、私の体を拭き終わったので、濡れていない車いすに乗り換えることだったのです。このとき、患者は前の手すりに捕まって立ち上がります。担当のケアさんは患者の腰のあたりを、しっかりとキープして、患者がよろけて、転倒しないように介助します、この間にお手伝いに来てくださった、ケアさんが、湯船で使った車いすと、湯上りタオルを敷いた新しい車いすとを入れ替えてくださる。椅子の交換が終わると患者は恐る恐る腰を下ろして移乗が終了します。寝たままベッドで浴室へ運ばれてきた患者さんの移乗はもっと大変です。ケアさん四人で患者さんの体を持ち上げてベッドを入れ替えます。これも「移乗」と呼ばれています。日本語は難しいですね、同音異語がたっくさんありますから、音を聞いて漢字を連想して意味を理解します。これを使って、ジョークや洒落も作られますが、外国人にとっては、それどころではないでしょう。


老人ホームにも春が来ました。

2015-04-22 | 気ままなる日々の記録

 

 

 連日の雨天がやっと治まり、久しぶりの晴天!暖かい陽気に誘われて散歩に出ましたら、野はまさに春爛漫、草花が咲き乱れ、久しぶりに表れた車いすを歓迎していてくれるようでした。

此処で思い出すのが、ドイツじんだったかイギリス人だったかイエイッツという詩人だ、彼は、花を見ると「彼女の唇はチューリップ」というように、次々とイメージを膨らませ、美しい詩を書いていた。オソマツ君に

ィエィッツの1000分の一の才能があれば、この花たちを読みこんだ美しい詩が書けるのだが。第一草花の名前が分からない。分かっただけでも書き上げてみます。「ヤマブキ」『タンポポ」「蓮華」「白つめぐさ」「野あざみ」「芝桜」「れんげ」「どうだん」ぐらいだ。

なお、剪定の行き届いた民家の庭の満天星(どうだん)つつじやさつきはみごとでした。


日曜日《4月19日》の朝

2015-04-19 | 気ままなる日々の記録

闘病中のオソマツ君にとっても、どこかホットする日曜日である。リハビリも予定された受診も何もない。全ての時間が自由!ということが、ホッとする要因のようである。外は薄曇りで、目を凝らすと霧雨が降っているようである。この施設の日曜日の朝食はパンである。このパンも悪くない。美味しいのである。トーストされた薄切りのパンで、家内が冷蔵庫からお手製のイチゴジャムを出してくれる。コップのコンソメスープもどきも頂く。例の通り、皿にはウインナーソーセージとスクランブルエッグ。毎日の朝食の中でオソマツ君が一番好きな朝食が日曜日である。

今朝廊下に出ると何処からか、クラッシク音楽が聞こえてくる。無意識のうちに音楽に惹かれてその方に車いすを漕いだ。確かに交響曲である。ここでは、耳にすることが珍しい響きである。数日前も1階のホールで何とか音楽会があったが、騒々しいだけで落ち着かない音楽会であった。極論すれば『場末のドタバタ劇場のような音楽』が続いていた。日曜日の朝、微かに聞こえて来た音楽はそれとは趣を異にする音楽であった。はずれかも知れないが、ブラームスの交響曲第四番のようであった。その音楽は扉を開けたある部屋から聞こえてきていた。よく見れば、何と、あの書家の部屋であった。書家は椅子に深く腰掛け目を閉じて鑑賞されていた。やはり芸術を志しておられるお方の感性は違うと思いました。音に誘われ知らず知らずのうちに、此処まで来てしまったオソマツ君まで幸せな充実感に満たされた朝でした。。


あるじなしとて、春な忘れそ。

2015-04-18 | 気ままなる日々の記録

昨日家内が色々な用事を抱えて久しぶりに我が家に帰り、庭の花々を撮影してきてくれました。花を見た瞬間に、どこで咲いていたかが分かり、久しぶりに旧友に出会った感じで、感慨も一入(ひとしお)です。おお!僕がいなくても、僕の帰りを待って咲いていてくれたか!ありがとうよ!

↑  上の2枚は枝垂れ桜で娘の結婚記念に、植えた木です。大きくなりました。何の木にしようかと考え、可児の花木センターで苗木を買いました。満開の頃には、カメラを持った人が、よく写真を撮らせて欲しいと頼みに来られました。

  

左の写真は八重桜です。一昨年はこの花を収穫し塩漬けにし、桜茶にして春を楽しんでいました。右の写真はこの地方の天然記念木に指定されている「ひとつばたご」の木で、男の孫の誕生記念樹です。これも大きくなりました。

  

左はプラムの「大石早生」です。6月下旬に収穫で、美味しいです。右はキイウイです。この収穫は晩秋でぐっと我慢して、初霜まで待ち、葉が霜で茶色になるころ収穫すると完熟になっていて美味しさも倍増します。この棚は私の苦心の作品です。

  

  

 

  

  

 

                        

花弁を天真爛漫に広げた紫の花はテッセンです。これは、家内の一番のお気に入りです。アイリスは見ごろを過ぎています。隣のコデマリは、なかなか大きくなりませんが、花は見事です。


文春新書 藤原正彦著「日本人の誇り」を読みました。(その1)

2015-04-15 | 気ままなる日々の記録

オソマツ君の読書は、乱読の斜め読みが多いのですが、この本は違いました。丁寧に、ある部分は後戻りして二度読みもものともせず、夢中で内容を追いました。

 常日頃どうして日本はあんな負けるとわかっている戦争をしたのだろう、とか、私たちの世代が学んだ日本の歴史は、どうして兵士の命を軽く見た作戦を展開したのだろうかとか、尊敬できない蛮行の数々を思い起こすと厭になることばかりでした。

 しかし、著者は、日本の近代史を丁寧に振り返り、反論して呉れています。著者藤原正彦氏の強みは英語が堪能で、全ての資料を自分で読んでおられるところです。

  たとえば日本が受諾したポツダム宣言にはどんなことが書いてあって、それが守られていたか、

 ハーグの陸戦条約をアメリカは守ったかなど、きちんと調べて本書を書いておられるというところは、国内の市販の資料を勝手に引用して私見を述べただけの戦後史論のような軽薄な戦後史とは重厚さが違います。

 著者が特に力を入れてお書きになった所が戦後のアメリカによる『日本弱体化計画』であったと思われます。アメリカはどうして、日本弱体化に周到な準備をしていたか。その背後にあったのは、第一次世界大戦を引き起こしたドイツの占領政策に誤りがあったから、ドイツ国民は短期期間のうちにヒットラー総統をリーダーに据え第二次世界大戦を引き起こすくにになってしまったという、苦い経験があったからです。食糧難のどん底に落ちていた我が国に食糧援助を行い、「もう敵国ではありませんよ、と笑顔を振りまき、骨抜きの作業を開始しました。それらは、次のようなものでした。

  周到に準備された言論統制、出版物の事前検定と発行禁止命令、更に、公職追放と云うリーダー交代など、いずれもポツダム宣言違反、

 アメリカが重点を置いた点は、アメリカとの戦争になった原因はすべて日本の軍国主義にあったと日本人に思わせることであった。ハーグ条約違反の住宅地の無差別爆撃も原爆投下も日本軍国主義に鉄槌を下す必要悪であったという論理であった。

  このアメリカの論理に飛びついたのが、日本の左翼であった、というのである。オソマツ君の世代はよく胸に流れる説明である。

  現在の高校で明治以後の日本史をどのように習っているか、ここの、若い人に聞いたら世界史が必修で日本史は選択しなかったという人や、三学期になって明治以後は残してしまって、教科書を読んでおけということだったというひとばかりであった。

 相変わらず日本の文部行政はおかしい。敗戦国の毒が回っているままだ。

 このブログをご覧ただいている諸兄に、どうか「日本人の誇り」をご一読くださいますよう。心からお薦めいたします。


旧制高等学校の風景

2015-04-13 | 気ままなる日々の記録

 以下斜体字の部分は朝日新聞4月11日号の「折々の言葉」にあった文である。筆者は鷲田清一氏であった。《身体髪膚之父母受敢毀傷孝始也(しんたいばつぷこれふぼにうく。あえて、きしょうせざるは、孝のはじめなり。本文縦書き。)《中国の古典『孝経』の一節)これを受けて「寝台白布之を父母に受る敢て起床せざるは孝の始め也」と墨書して自室の扉に貼っていた輩(やから)がいた。《読みはこのブログの編集者)

この雰囲気大いに気に入った。洒落に教養がにじみ出ている。(註:身体→寝台。髪膚→白布。毀傷→起床。)

 こうした学風は新制になって何処の学校からも消えた。戦後アメリカに押しつけられた、学制改革の大失点であると思われます。

 もう一つ言えば己を優先させ公を考えない教育は「アメリカによる秘められた日本弱体化計画の一端であったと思われます。近年、公の視点を失った青少年の重大犯罪が多すぎます。軍国主義批判に名を借りたアメリカの占領政策盲信左派に泣かされます。そのうえすべてに優先するのが金儲けで 昔、「食うために生きるに非ず、生きるために食う」という格言があったが、現在の我が国は民放テレビを見ていると全国民が食うために生きているように思われます。もう少し気概を持って、世界の範とな

               

る国造りをしましょうよ。「武士は食わねど高楊枝」とまでは言いませんが。大学の附属病院からがんセンターまでおかしくなって、公を失った毒が相当上層部まで回った感があります。

 ここで思い出すことがあります。

 金融機関に請われて東芝の社長に就任され経営再建に尽力された後述の土光さんですが、朝食はいつも、イワシの目指しを焼いたオカズにお豆腐の入ったお味噌汁とごはん、だったといいます。奥様も、電気洗濯機をお使いにならず、洗濯板の上で固形の洗濯石鹸を使って、ごしごし洗われ、「私の健康法デスのよ」とお笑いになっておられたとか。当時の日本国民は、そんな土光さんを心から尊敬していました。今なら、政府が、国民の消費を刺激しなければなどと、三流商人のようなことを言ってムダを奨励します。情けない国になったものです。その土光さんですが奥様のウン十歳のお誕生日に東芝製の電気洗濯機と掃除機をプレゼントされたとか、麗しいお話です。

最後に念のため旧制高校について少し補足します。発足は明治時代で、イギリスのパブリックスクールを模して造られた学校で、年齢的には今日の大学前期にあたり、修業年限は3年、第一高等学校は東京にあって、通称一高、二高は仙台、三高が京都、四高は金沢、五高は熊本六高は岡山、七高は鹿児島、八高が名古屋、その後は地名を使って松本高校などがありました。一から八までの高等学校をナンバースクール、地名の付いた高等学校をネイムスクールという呼び方もありました。ネイムスクールの方の例は、松本の他に、静岡、松山、山口、新潟、浦和、高知、広島、富山、水戸、山形、弘前、松江、大阪、等があり、やがて、植民地であった旅順や台北にも開校されました。

 どの高校も難関で旧制中学を卒業した生徒が浪人などして受験しました。だから、旧制高校は全寮制で猛烈に勉強しました。先生も当番制のようにして寮に泊まり学生の質問に答えたり、読書指導に当たりました。つまり、敗戦前までの我が国の非軍事部門の指導者を養成する機関としてよく機能し、教養、人格、精神力、指導力等を養成していました。その意味で、敗戦後も是非残したい教育機関でした。それだけに、アメリカは本気で潰しました。

 「昔神童と云われた俺も、今じゃドイツ語で目が回る」というデカンショ節を歌ったのも旧制高校の寮生たちでした。蛇足ながら、ヤフーで検索すると相当詳しく旧制高校のことが分かります。以前経団連の会長を務められた土光さん《東芝の社長さん。東芝再建に尽力された)が経済界の重鎮を連れて、英国とドイツ、フランス等を回られ、我が国とこれらの国々との交流を深めるための懇談会を重ねられた、

 恒例の相手国主催の晩さん会が開かれたとき乾杯の後のスピーチでドイツべはゲーテの詩の一説をドイツ語で、イギリスではシェクスピアーの戯曲の一節を古典英語で朗々と披露され,相手国の経済界の重鎮たちを驚かせられたとか、こういうことができたのも、土光さんが旧制高等工業高校《現東工大:旧制高等工業高校は旧制高校の校風を大いに取り入れていました)のご出身だったからこそであります。イギリスやヨーロッパでは教養のある人は尊敬され信頼されるという文化があり全ての交渉事が解決に向かって動き出します。

 


昨日はとんだ人生勉強の日でした。

2015-04-10 | 気ままなる日々の記録

 朝10時過ぎにスタッフの男の子が来て「今日は11時半から歯科の訪問診療の受診日です」と云う。私は驚いて、「聞いていません。それに僕10時半からお風呂です」というと「お風呂の方には11時半までに終わるよう僕から頼んでおきます」という。家内は朝からいろいろな用事で外出中だった。お風呂を済ませて訪問診療の診察室の前で並んだ。しかしそこは、女神ニケの像の前ですごく寒いところだった。エアコンの暖かい空気は上に上がりエントランスの自動ドアは人の出入りに合わせて開いたり閉じたりするが、その度に外から冷たい空気が吹き込む、時には子どもが面白がってドアの前を往ったり来たりして遊んでいたりする。お風呂上りに寒くなって風邪でもひいたら、まさに泣きっ面に蜂だ、と思い急いで部屋に戻り、毛糸のセーターを持ってお風呂へ急いだ。顔なじみのケアさん(Kさんとする)に着せてもらおうと思ったからだ。

僕(Oとする)「お忙しいところ、すみません、これ着せてください」

Kさん「いいですよ。それより、さっき出て行ったOさんが、着替えのようなものを持ってまた来たので。『僕のお風呂まだ~』と言い出したらどうしようと思ったわよ。そういうふうにならないでね」

O「そういう人沢山いるの?」

K「けっこう沢山おみえよ。それに2種類あるの。『さっき、お入りになったよ』、というと、『そうだったあ』、とすぐ謝る人と怒り出す人と。Oさんの場合は間違いなく怒り出す方になられると思うわ。いつも、自信ありげに自分の意見を言っておられるから

O「ギャフン。そうかなあ~。困ったもんだねえ」

K「そうよ。そうなると奥さんが一番大変。そうだ!今日から奥さんが何を言われても『そうだね、ありがとう!』と云うようにしなさい。これ約束よ!』と云われてしまった。家内が帰ったらすぐにこの話をし、Kさんに聞かれたら『そう云うようになったと云っておいてくれよ』と頼んでおいた。オソマツ君はこういうことは得意だ。家内の話によると、Kさんはご実家が江南市で字が我が家に近いという。だから、思いのほか私のことをよくご存じかも知れない。世間は思ったよりも狭い。用心!用心!だ。その後の顛末だが、どれだけ待ってもお医者さんも来なければ、患者さんらしき人も来ない。変だと思って事務室に聞きに行ったら『あなたの歯科受信日は5月8日です』と云われてしまった。どうすると5月8日と4月9日と間違うかと怒れたが、『ああ、そうですか。有難う。』と云った。あれは、キリスト教だったか仏教だったか、”この世に無駄はない。全ては神様・仏様のお恵みの通り”と云う言葉があったことを思い出したからだ。アリガタイことです

 

     

                  蓮池に置かれた植木鉢のパンジー。

 

 


文春新書、藤原正彦著「日本人の誇り」を読みました。(その2)

2015-04-09 | 気ままなる日々の記録

「若き数学書のアメリカ」以来、オソマツ君は藤原正彦氏のフアンである。前著の「国家の品格」もよかった。文章がいいから読みやすい。本書は「はしがき」にあるように我が国の近現代史である。特にアメリカによって占領されていた時代に焦点を合わせた戦後史でもある。アメリカは周到な占領政策によって先の大戦の全責任を日本に負わせ日本人の魂の入れ替えを行い見事に成功した。その結果,今日の我が国で子どもたちの学力はどんどん落ち、未成年の犯罪は多発・凶悪化しています。ご一読をお薦めします。書店で見つけられたら、「はじめに」だけでも立ち読みしてみてください。巧みな筆運びに感動されること請け合いです。

オソマツ君はかねがね我が国のかつての指導者は先の大戦の経緯についての反省や後世への教訓を残していないと嘆いてきましたが、この本によってその理由が何処にあったか分かりました。巧みな占領政策でした。周到な準備によるマスコミ監視、新聞・出版物の事前検閲、発行停止、有力者の公職追放私信の検閲などなど、無差別爆撃や原爆投下など、も東京裁判で罪状の主因とした条項に確実に合致する犯罪行為でしたが、それへの言及を封じました。こんな政策を成功させたことはアメリカのためにもよくなかったといえます。

 


「スマホをやめるか、大学をやめるか」。信大入学式で学長式辞。

2015-04-07 | 気ままなる日々の記録

 久しぶりに爽やかな文章に出会い、このブログを見ていて下さる方々にも紹介しようと、朝日新聞デジタル版からコピーしました(斜め文字部分)。内容はオソマツ君と同年配の方々にも大いに参考になると確信しています。なお色文字や下線などの装飾はこのブログの編集者によるものです。なお、全文をプリントアウトして届けてくださったのは、以前に紹介した書家の方です。厚く御礼申し上げます。

 

 「新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。信州大学は全学を挙げて皆様を歓迎いたします。そして、ご両親、ご家族の方々に心からお慶びを申し上げます。おめでとうございます。

 皆様が本日入学式を迎えることができましたのは、厳しい受験勉強を克服された努力の結果であります。と同時に、励まし頂いたご家族、ご友人そしてご指導頂いた先生はじめ多くの方々のお陰だということを改めて深く胸に刻み、感謝の気持ちをいつまでも持ち続けてください。

 そして、留学生の皆様は母国を離れ、言葉、文化、生活習慣の異なる信州のこの地に生活することになりました。初志を貫徹され、四年後に大きな成果を挙げられることを期待しております。

 また、信州大学大学院にご入学された皆様にも、心からお祝いを申し上げます。おめでとうございます。最高学府である大学院の入学式に臨まれて、決意を新たにされていることと存じます。今の新鮮な知的高揚感を決して忘れることなく、大学院での学びと研究を続けて頂きたいと存じます。

 ところで、新入生の皆様は、本日、大学受験から解き放たれたことになりましたが、もう勉強はしなくて良いなどとは考えていませんよね。

 今までは、皆様は正解のある問題を解くことに終始していました。知識の量を試されていました。世の中では、正解のない問題を解かなければなりません。誰も考えたことのないことを考えるという、知識の質を問われることになります。さらに、世界の状況は変化が大きく、スピードも速く、ICTの進歩で一気にグローバル化します。

 大学院入学生にも、是非聞いて頂きたいのですが、日本が今後とも活力ある社会を維持し、世界へ積極的に貢献していくためには、科学、技術、文化のいずれの分野でも独創性や個性を発揮することが重要となります。横並びの発想では問題を解決できません。

 皆様は、もしかしたら、個性の発掘に没頭する「自分探し」をしませんでしたか。また、これからしようと思っていないですよね。若い時の自分探しは勧められません。特に、解剖学者養老孟司さんは、「個性は徹底的に真似をすることから生まれる」とまでおっしゃられています。伝統芸能の世界に見られる、師匠と弟子の個性の違いを指摘されてのことです。

 個性を発揮するとは、なにか特別なことをするのではなく、問題や課題に対して、常に「自分で考えること」を習慣づける、決して「考えること」から逃げないことです。自分で考えると他人と違う考えになることが多くなり、個性が出てきます、豊かで創造的な発想となります。

 学生で言うと、普段の勉強を真剣に取組むこと、そして身につける「知識の量」を主とするのではなく、「知識の質」すなわち自ら探求的に考える能力を育てることが大切となります。

 ところで、信州大学の学生は独創性が豊かなのでしょうか。ここに興味あるデータがあります。昨年六月の日本経済新聞の調査結果です。上場企業四三三社の人事担当者から見た「大学のイメージ」調査です。「対人力」、「知力・学力」、「独創性」などについてのランキング結果です。

 信州大学は、京都大学を抑えて、「独創性」項目で第一位です。この「独創性」の判断は「創造力がある」と「個性がある」という質問で行っているようです。

 一言付け加えておきますが、信州大学は、「知力・学力」の項目でも、高位にありました。「単に変わった人間が多い」ということでは決してありません。

 就職されている先輩諸氏は、「独創性」が高いという社会的評価です。皆様もそうでしょうか。卒業すると、そうなるのでしょうか。私は違うと思います。受験勉強と同じ気持ちでは駄目です。大学での勉強と生活の仕方を変えなければなりません。

 その理由をお話しましょう。創造性を育てるうえで、特に、心がけなければならないことは、時間的、心理的な「ゆとり」を持つこと、ものごとにとらわれ過ぎないこと、豊か過ぎないこと、飽食でないことなどが挙げられます。

 自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすることが最も大切となります。

 子供の頃をちょっと思い出して下さい。子供の頃は、例えば、夏休みがゆっくり過ぎていたと感じませんか。大人になると、忙しさで、時間は走馬灯のように速く過ぎていきます。脳科学者のDavid Eagleman(デイウィッド イーグルマン)さんは「記憶が詳細なほど、その瞬間は長く感じられる。しかし、周りの世界が見慣れたものになってくると、脳が取り込む情報量は少なくて済み、時間が速く過ぎ去っていくように感じられる」と言っています。

 自分の時間を有効に使うために、自力で時の流れを遅くする必要があります。

 そのために五つの方策が提案されていることは良く知られています。

 一、学び続けること。新しい経験が得られて、時間感覚がゆっくりとなる。

 二、新しい場所を訪ねる。定期的に新しい環境に脳をさらす。

 三、新しい人に会う。他人とのコミュニケーションは脳を刺激する。

 四、新しいことを始める。新しい活動への挑戦。

 五、感動を多くする。

 

 信州大学では、自然に囲まれた緑豊かなキャンパスでの勉学と課外活動、都会の喧騒とは無縁の落ち着いた生活空間、モノやサービスなどが溢れることのない地に足の着いた社会など、知的にものごとを考え、創造的な思考を育てる環境を簡単に手に入れることができます。先輩諸氏は、このようにして、ゆっくりとした時間の流れを作っていたのです。

 皆様はどうでしょうか。残念なことですが、昨今、この信州でもモノやサービスが溢れ始めました。その代表例は、携帯電話です。アニメやゲームなどいくらでも無為に時間を潰せる機会が増えています。スマホ依存症は知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません。スマホの「見慣れた世界」にいると、脳の取り込み情報は低下し、時間が速く過ぎ去ってしまいます。

 「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」 スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます。

 最後にご紹介したいことがございます。本日の入学式では二つの歌を皆様と一緒に歌うことになっています。一つは信州大学の前身の一つである旧制松本高等学校の思誠寮寮歌「春寂寥」です。大正九年に吉田実さん(作詞)と濱徳太郎さん(作曲)の二人の学生によって作られました。

 旧制松本高等学校は、大正八年(一九一九年)に開校され、その後信州大学の発足にあたりその母体の一つとなり、文理学部に改組されて昭和二十五年(一九五〇年)には閉校となりました。

 文科と理科の専攻に分かれての勉強ですが、授業時間の四割が外国語、文科でも数学と自然科学が週五時間ほど課せられ、また理科でも国語及び漢文が週四時間ほど課せられる、文理の差が非常に少ないカリキュラムでありました。

 ほとんどの生徒は思誠寮での寄宿生活であり、寮生活を通して、切磋琢磨により、自らの生き方を見出すという恵まれた時間をつくることができたと言われています。まさに独創性が育まれたということです。作家の北杜夫さん、辻邦生さん、病理学者の飯島宗一さん、日本人として初めて南極点に到達した南極観測隊々長の村山雅美(まさよし)さんなど各界で著名な方々が多くいらっしゃいます。

 もう一つの歌は、信州大学学生歌「叡智みなぎる」です。昭和三十五年に文理学部宮坂敏夫さん(作詞)と工学部羽毛田憲一さん(作曲)の二人の学生によって作られました。文理学部同窓会誌に、宮坂敏夫さんが書かれた「作詞の経緯」によりますと、信州大学学生部が六十年安保闘争のデモに明けくれる学生の実態を見て、学内に潤いが欲しいと思って、学生歌の募集を始めたのではないかとあります。なお、宮坂敏夫さんは、現在俳人としてご活躍でいらっしゃいます。この「叡智みなぎる」の学生歌ができた頃の学生達は、自らの勉学時間を削ってでも、日本の国の在り方と国の行く末を案じるという、熱い情熱を持って学んでいたのです。

 また、この二つの歌はいずれも、松本在住の音楽家丸山嘉夫さんによって、見事に編曲され、若者たちの「青春の歌」として蘇っていることを付け加えておきます。

 皆様は、一日も早く新しい生活環境に慣れ、心身ともに健全に保ち、勉学に励み、目標に向かって進んでください。大学生時代は、長い人生の中でもかけがえのない大切な時期であります。充実した楽しい大学生活を過ごされることを期待しています。

 そして、大学院に入学した皆様は、自らの高い問題意識と積極的な取り組みによって、初めて真理が探究でき、新しい知の創造の喜びが生まれ、社会に貢献できることを肝に命じてください。

 学術研究の将来を担うのは皆様です。信州大学の学術研究は皆様の肩にかかっています。高い志と熱い情熱を持ち続けてください。そのことによって、日本の明るい未来が開けるものと確信しております。」

平成二十七年四月四日

                施設内の絵画( 1997年東山魁夷作の『緑の詩』 )


4月28日は何の日?

2015-04-04 | 気ままなる日々の記録

朝日だったか、毎日だったか、新聞を読んでいて見出しの質問に出会いました。筆者は京都大学の先生で、最近の学生は殆ど知らない。と書いておられた。4月28日は昭和27年4月28日で、ついでに、昭和20年8月15日は何の日?と云う問いもありました。答えは前者がサンフランシスコ条約締結の日であり、後者はポツダム宣言受諾の日です。後者は明らかに敗戦の日であり、前者が終戦、独立、占領終了の日です。その間は、連合軍に占領されていた期間であり、我が国は自立独立国家ではなかった、のです。日本政府が8月15日を「終戦記念日」と呼ぶのは、旧軍隊が「敗戦撤退」を、「転戦」と呼んだのと同じ「ごまかし」です。我が国の文化は言い換えによって印象をやわらげ、結果的に嘘をつくことが好きな文化です。8月15日は正しくは敗戦・被占領開始の日というべきである。此処で大切なことは現在日本が抱えている厄介な領土問題、対中国の問題も、対韓国の問題も、対ソ連との問題も、被占領時代にアメリカ主導で種がまかれた問題だ、ということである。歴史的な課題もありました。

日本にポツダム宣言の受諾を迫った方(戦勝国)に中国が入っていますが、サンフランシスコ条約には中国は入っていません。ソ連もそうです。この間に中国では蒋介石政権から毛沢東政権に代わりアメリカとの関係が劇的に変わり,それが影響しています。

 もっと踏み込んで言えば、東西冷戦の時代に入りアメリカは日本をアメリカ陣営に留めておくために、いろいろな仕掛けを行いその一つが領土問題だったわけです。4月28日を独立記念日としようとした動きもありましたが、沖縄が怒りましたサンフランシスコ条約締結後も沖縄の占領が続いていたからです。その意味で、今日の我が国は普通の独立国とは言えないような状態でもあります。それは半永久的に米軍基地を国内に置いているからです。

  韓国はもっと複雑な関係にあります。それは明治時代の日韓併合によって一方では韓国も敗戦国の側に立たされていますが、他方日本の敗戦によって韓国は独立でき立派な戦勝国でもあるからです。日韓併合あたりの歴史の真実を勉強し直さないと、非常にデリケイトな問題を含んでいますので軽率な評価は許されません。

 オソマツ君の世代は高校で明治以後の日本史をキチンと教えられていません。大学入試に出題されないという口実からからです。

 どうして出題されなかったか?それは、正解がわからないからでした。これもまた、キチンと向き合わなければならない問題から目をそらすという日本文化のいい加減さの表れでした。旧世代が『いやなことから目をそらす」世代であったとしても、次の世代、国際化の世代は「厭なことからも目をそらさず」キチンと評価し諸外国に謝罪すべきは謝罪し、主張すべきは主張する国でありたいものです。