昭和20年8月15日、オソマツ君は小学校3年生だった。だから夏休み中ということだ。この日正午から大切な放送があるのでラジオを聞くようにという知らせがあったようで、前の家(うち)のオジサンとオバサンが家へ来ていた。何でも前の家はラジオの調子が悪くて雑音が多く、聞きとりにくいとかだった。それに便乗して近所のオバサンも幾人か家へ来ていた。ラジオで何かよくわからないことを言ったらどうすればいいか、うちのお爺ちゃんに聞こうという魂胆だったそうだ。そのお爺ちゃんは、出かけていて、間もなく正午だというのにまだ家に帰っていなかった。家には祖母と両親、兄と妹がいた。一番よく覚えていることは、放送が始まったら大人たちが急に「気を付け!]をしてラジオに向かって礼をしたことだ。ラジオでそうするように指示されたようだったが、オソマツ君は近所のおばさんたちを見ていて聞きもらしていた。ただよく覚えていることはおばさんたちが急に姿勢を正しラジオに向かって最敬礼をするという異様な雰囲気だったことである。そのうちに聞こえて来たのは奇妙な声と変な抑揚の声だった。この放送のことを玉音放送という。昭和天皇が直接マイクの前にお立ちになり『終戦の詔勅をお読みになった声の録音盤の放送だった。天皇は皇居内の神社で祝詞をお読みになるようにお読みになったとかで、よく聞き取れなかった。それで、放送が終わった時も大人たちはキョトンとしていた。『ほんで、なんだった?』と誰かが言ったら父が「戦争が終わったようだ。日本が負けて」と云った。またみんな、キョトンとしていた。
オソマツ君がよく覚えていることはその日の夜から「燈火管制」が無くなり部屋の中が急に明るくなったことだ。「燈火管制」が分からない人も多いだろう。家内も知らないという。「燈火管制」というのは。夜電灯の明かりが外に漏れないように白熱球とその上にあった傘に黒い布のスカートをはかせて光が屋外に漏れないようにすることである。夜空襲に来た敵機に住宅のありかを知られないようにするためである。
このころは、毎夜空襲があった。空襲と云えばオソマツ君は昼間の空襲二つと夜の空襲一つをよく覚えている。警戒警報が発令されると役場の屋根の上にあったサイレンがなり授業は打ち切り、生徒は急いで帰宅した。その日帰宅後、家で遊んでいると友達が来て『火の見櫓に少し登ると名古屋の空襲が見えるそうだ、観に行こう。と誘ってくれた。急いで付いて行って火の見櫓に少し登って南を見るとまっすぐに伸びた白煙が見えた《御嶽山の白煙に似ていた》後日聴くと名古屋城の天守閣が空襲でやられたとのことだった。(昭和20年5月14日》あの時の煙の形は今もよく覚えている。二つ目の昼空襲は昭和20年6月22日の各務原飛行場の爆撃である。ここには陸軍の飛行場があって関連施設も多く集中的に爆弾攻撃を受けた。このときは爆弾の炸裂音まで聞こえた。立ち上る砂煙は我が家の裏からよく見え炸裂音が聞こえると恐怖で体が震えた。夜の空襲は昭和20年7月28日の一宮の炎上である。夜、西の空が真っ赤になっていた。
夜空襲警報が出ると子供たちは防空壕に入ることになっていたが我が家の防空壕は藪の中にあり夏場はあまり入らなかった。藪の中に掘った横穴は竹の根によって天井が崩れ落ちないのでいいと褒められていたが、藪の中の穴には夏の間は蛙、蛇、ムカデが出るので注意が必要だ。蚊も実に多かった。明るいうちによく点検をして中で蚊取り線香に点火しておき、新しい蓆を敷いておく必要がある。蚊取り線香を焚いておくと蛇も蛙もムカデも出ない。
一宮空襲の夜は裏の田圃の方へ廻って西空を見ていた。恐ろしさでガタガタ震えていた。舞い上がる火の粉までみえた気がする。この夜流れ弾が浅井町や古知野町に落ち、消防車(消防団の人たちによる人力消防車)も走った。
後日母が罹災した一宮の親戚の家に届けるために衣類や食料品を自転車の後ろに積んで出かけた。その帰りに道に落ちていたと云って焼夷弾の燃えカスを拾ってきた。私たちに見せるために。長さが6~70センチの六角柱で六角形の外接円の半径は5~6センチだった。こんなものに油をつめて空からばらまき火を点けられては木と紙で作られた日本の家は堪らない。この拾得物は後日鍛冶屋さんに持って行って大きな塵取りに再加工されつい先日まで使っていた。
オソマツ君は日本はどうして勝てるはずがない戦争に 突入していったのか軍縮問題か、満州放棄の問題か、我が国のリーダーたちは何を考え、どこで判断を間違えたのか知りたいと思う。世に云われている一部の軍人たちの所為だけではないような気がする。(立花隆の名著『天皇と東大』参照)外交も実にまずかった《今もそうだが)と思える。賢兄がよくいうように「人間は見たいものしか見ない(シーザーの言葉)」からだろうか。日本人はとくにそのようだ。
翌16日は登校日だった。最初に朝礼集会があった。整列が終わると『皇居遥拝』の号令がかかる。全生徒がサッと東を向く。「礼!」の号令によって、最敬礼をする。天皇陛下への忠誠を誓う意味である。「直れ!」の号令で指令台の方へ向き直る。「学校長訓辞」で、この日は校長先生に代わって教頭先生が登壇され、マイクの前で悲痛な声をあげられた。「日本は戦争に負けました!」しかし天皇陛下のお言葉にあったように「堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び「、なお日本人としての誇りを失うことなく。祖国再建のために頑張らなければなりません。皆さんがしなければならないことはよく勉強することと、お父さんお母さんのお手伝いをよくすることであります。明日からと云わず今日から力一杯頑張ってください」と云われた。この「堪えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」、はしばらく流行語になった。朝礼が終わって教室に入ったら担任の先生がお見えになりお話しされた。先生はお若い女の先生でしたが、何度も声を詰まらせ、涙を流して「日本は負けました」と云われました。生徒たちは先生の目から大粒の涙が零れ落ちるのをはじめて見て、どうやら大変な事が起こったらしいとは思いましたが、どうして先生がこんなに泣かれるのかわかりませんでした。生徒たちは、喧嘩でも負けた方が泣くから、日本が負けたなら日本は泣かなければいけないのかなあ、といった程度の理解しかできませんでした。
その後猛烈なインフレ・食糧難が日本を襲い、旧円封鎖・食糧配給制(これは戦争中から)など、直接死活につながる難問が大人たちを襲いますが、幸い我が家は、自作農の端くれとして田畑を耕していたので子どもたちは食糧難も何も知らずに育つことができた。
どうして戦後食糧難になったか。主な理由は農家の働き手が兵隊に取られて戦死して生産力が急激に落ちたためである。どうして急激なインフレになったのか。数年前、日米戦争を想定した政府は利率の良い短期国債を発行して民間から円を集めそれで軍備を増強しました。その国債が満期を迎え債権と引き換えに大量に円が市中に流れ込んだためです。そこで政府は1946年2月16日付けで閣議決定《国会審議なし》で金融緊急措置令をだし①旧紙幣の流通停止②預金封鎖③国債等の支払い猶予④新紙幣の発行等の政策を決定・発表しました。銀行預金の引き出しにも家族の人数によって一か月月の上限が設けられその金額分の証紙が発行され従来の紙幣でもこの証紙が貼られておれば有効とするという臨時措置も実行されました。大量の国債発行や金融緩和政策が何をもたらすか日本人は終戦直後によく学習しました。また、この旧円に貼る証紙の横流しの噂がたえませんでした。今では銅貨になって小銭入れの中でじゃらじゃらしている十円ですが戦後のインフレ前までは立派なお札で今の千円札のように財布の中で大切に挟まれていました。旧拾円札がもっと重々しかったので発行当時は悪評でした。ネットで旧十円札として検索すると古紙幣市場へたどり着き懐かしい紙幣の図版を多く見ることができます。参考までに書きました。
穏やかな日差しに誘われて夕方カメラを持って散歩に出ました。そこで見たものは偉大な二つの「営み!」でした。一つはパワフルな自然の営みであり、他の一つは地道な農家の人々の営みでした。この二つの営みはそれぞれ楽曲となって田園に鳴り響いていました。夕日に照らされた田園からは勇壮な交響曲が聞こえました。(カメラがそれを捉えているか自信がありませんが)。
収穫期の田園風景
この田圃の一筆の広さに驚かされます。ついこの前まで行われていた人々の手作業による『田植え』や「『稲刈り』などできる広さではありません。ちょうど車庫に収まったコンバインを見つけました。4馬力程度のエンジンで手押し型の稲刈り機も見かけました(写真はありません)。圧巻はこの機械が適当な大きさで稲の束をつくることです。日本の技術力に最敬礼です。台風19号の被害!。収穫直前でした。水のたまった田に残された轍の跡から耕運機の大きさが分かります。刈り取りが終わった田にはきちんと耕運機がかけてありました。これはもう来年の田植えの準備と云ってもいいかもしれません。
トマトとプラム(大石早生)
ここ数日フォトチャンネルアップに夢中になっています。この「トマトとプラム」も古い写真のホルダーを開いて無理やり作成したものです。
オソマツ君の目にはどれも元気だった時の思い出で胸が締め付けられる思いがします・トマトは自慢の野菜で、苗の植え方にコツがあります、プラムも試行錯誤の後ふくろみ病撲滅に成功した矢先の発病でした。柿は5月、6月、7月の月末の早朝にパダンという薬品で消毒しました。それがしてない今年はほとんど落ちてしまっているといいます。フォトチャンネルの作成に成功して改めて写真を見ていると、朝どりトマトの美味しさを思い出します。凡人は日常の幸せを、失ってやっと平凡の大切さに気が付くとか、オソマツ君も凡人の見本でオソマツそのものです。半身不随ながら、皆さんに助けられフォトチャンネル作りに夢中になっている今の幸せに感謝しなければなりません。
次の茜色の空の写真を見ていて以前オ-ロラを見に行った時のことを思い出しましたので、少し書きます。場所はカナダのロっキ-山脈の中程の町イエロ-ナイフ。セントレアからバンク-バ―へ飛んで、国内線に乗り換えてイエロ-ナイフへ。そこのホテルに滞在して毎晩ロっキ-山脈の中に造られたオ-ロラ鑑賞用のロッジへ向かうという日程でした。山の中にオ-ロラ鑑賞用のロッジが作られたのは、全ての視界からネオンなどの都会の光を消し去ろうとしたからです。ロッジ周辺には暖房つきの安楽椅子や木製の椅子があり予約制でレンタルできました。当初3人で出かける予定でしたが、出発間際に一人の奥様が病気入院されたので参加できず二人の旅になりました。3日間滞在して雨や曇りでオ―ロラが見えない確率が20パ-セント以下と旅行社の案内に書いてありました。私たちの場合最初の2日はダメで最後の日にド-ンと満天のオ-ロラに恵まれました。七色に染まった絹のカ―テンがはるか彼方から龍のようにくねくね泳ぎながらこちらに迫ってきます、そして空全体が七色に染まって揺れます。その時は感動のあまり声も出ません。天空から交響曲が聞こえてくるような気さえします.そのうちに自分の存在があまりにも小さく天に吸い取られてなくなってしまう、それでも構わないという何とも言えない気持ちになります。確かに余りにも巨大な自然の営みの前で一人の人間の存在など些細なことです。
少し寒くなってロッジに入るとそこにはコーヒーや味噌おでんが(日本人用)用意されていました。
一緒に行った友人は名古屋では有名な俳人でロッジに入るとすぐに手帳を取り出して猛烈にペンを動かしています。聞けば俳句はスナップ写真だそうで、感動すると、次々と俳句が飛び出してくるのだそうです。それを忘れないうちにメモしておき、推敲は帰宅してからとし、雑誌に投稿して賞を狙うといっていました。なお、蛇足ですがオ-ロラの写真はありません。というのも、-40°の世界ではカメラに内蔵されているバッテリーが壊れてカメラをダメにするので耐寒用のカメラが必要でした。そんな特殊なカメラを買う気もなくカメラを持たずに出かけていました。
-40°について少し書きます。ホテルでトナカイの毛皮で作った繋ぎのジャンパーを貸してくれます。これが快適になります。これで街中へ出ても寒くありません。ホテルは繁華街にあって、乳母車に赤ちゃんを乗せてお母さんが歩いていたりしました。-人間の目も顔もよくできていて凍傷をおこすことはありません。お風呂から出たタオルは5分で氷柱になります。湖面がいつの間にか道路になってトラックが走っていたりします。最短距離を走るには湖面の上がいいのだそうです。
バンク-バ―は住みやすさの世界ランキングで5位には入るでしょう。それは冬暖かく夏涼しく都市計画がよく街中に公園が多く道は広くて車の渋滞などがないからです。オソマツ君たちが出かけたのは、イエロ-ナイフの晴天が多いという理由で1月でしたが、少しも寒くありませんでした。理由はバンク-バ―沖を流れる海流によります。冬は赤道直下で温められた暖流が流れ込み、夏は北極海の氷が解けだし寒流がながれるからです。
オソマツ君の友人で一人っ子の娘さんがアメリカ人と結婚してロ サンゼルスに住み、アメリカの一流企業に職を得てバリバリ仕事をしているという男がいました。その男があるとき「俺は娘の提案で老後はバンク-バ―に家を借りて住むことになりそうだ」、といいました。娘さんの考えでは、ロスとバンク-バ―は交通の便が良く(飛行機)ちょくちょく親の家に顔をだし最高の医療機関を紹介したり、よく間に合うお手伝いさんを手配したりしたいということだった。それを聞いたオソマツ君は、「家を借りるならゲスト用の寝室がある家にしてくれ。俺が家内とちょくちょく訪ねて逗留するから」、と云いました。彼は「いいよ、そうしよう。君が逗留中は毎晩宴会だね、いいねえ北米サンフランシスコ近郊のナパ・バレーあたりは結構ワイナリーが多いんだ。国道101を飛ばして行って現地調査をしてさ、秘蔵銘柄を探すか、いいねェ。楽しい老後になりそうだ」と云って呉れていた。
その彼は昨年バンク-バ―に行くことなく名古屋で亡くなった。死因は膀胱がんの転移と急激な悪化だった。そして逗留する予定だったオソマツ君は半身不随になって、今ではとても海外に出られる体ではない。世の中は、かように無常であり且つ又無情である。
台風19号の前稲の刈取りが終わった田圃の後に沢山のカラスがきていました。カラスは雑食ですから何を食べに来ているのかわかりません。コンバインを運転していた若い人に話を聞きました。5条刈りのコンバインで1千万円弱だそうで、そのほかに耕運機と田植え機が必要とのことでした。だから、相当の耕作面積と収穫、そして高値での売値が付かないと米つくりはできないと云っておられました。台風で収穫前に稲が倒れ穂先が水に浸かるようなことになれば、1年の丹精が水の泡になってしまいます。
晩秋の田園地帯
オソマツ君が母親に手を引かれて近くの小学校に入学したのは昭和18年4月1日だった。そのときの学校の正式名称は「××町立××国民学校」であったと思われます。小学校1年から6年までと高等科とばれる義務教育ではないが殆どの生徒が進学していた学年が2年併設されていました。《現在の中学1年と2年に相当します》1学年が3クラス高等科が2学年で6クラス。小学校の部が6学年で18クラス・全校で24クラス1200人規模だったと思います。田舎の学校は校舎の前が運動場で校門からグランドを右手に見ながら校舎の方へ進むと校舎の玄関へ着きます。街の学校は校舎の後ろがグランドで校門から玄関の間に気の利いた植え込みなどがあってそれだけでオソマツ君は劣等感になやまされていました。
田舎の学校は道に面して土盛りがありその上に生け垣が植えこまれていました。オソマツ君は2本の石柱の間を通って校舎の生徒用下駄箱の方へ歩きます。すると左手側に『奉安殿」があります.ここに来たら、足を止め帽子を脱いで奉安殿に最敬礼しなければなりません。奉安殿の横にあったのが『忠魂社』と『忠魂碑』です。『忠魂社』は少し小ぶりな神社でしたが、本殿の扉飾りやその前の階段もきちんと造られた銅板葺の屋根を持つお社だった記憶です。さしずめ靖国神社の末社といったところだったでしょうか。ここでは、脱帽と合掌をして、お参りしなければんりません。この二つを忘れて通り過ぎるところを先生に見つかると、酷いお目玉をくらうことになりました。『奉安殿」は建物も厳かで、そこには天皇と皇后のお写真が安置されていました。更に教育勅語を始めとする各種の勅語が奉納されていました。忠魂碑は日露戦争以後の戦争で戦死された、××町民の名前が刻みこまれていました。
学校で卒業式や入学式など大切な式が行われるときは高等科の級長さんたちが白装束で教頭先生と奉安殿の扉を開け白木の箱を取り出し、その白木の箱に白木の棒を通して厳かに担ぎ出し式場へ運び両陛下のお写真《御真影といった)を式場正面に飾ります。つまり両陛下のご臨席を仰ぎ式典を挙行するのです。オソマツ君が聞いて腰を抜かしたのは、ある校長先生に届けられた教育勅語が手違いで別の勅語だったのにその校長先生は眼を閉じて堂々と教育勅語全文を大声でお読みになられたというエピソードです。
この地方は心配された台風による収穫前の稲への被害もなく、代わりに美しい夕焼雲をプレゼントしてくれました。フォトチャンネルアップしたいと思い、この施設のスタッフにお聞きして挑戦しましたが、いろいろ難しく失敗の連続でした。各所にみられる不出来な点はご容赦頂き、先ずはご覧ください。《中央の→をクリックし、更に画面右下の『砂時計』の横の四角のマークをクリックしてください。止める時は大きくなった画面の右下の内向き矢印のある四角をクリックして元の画面に戻し、ストップマークをクリックしてください)
今私がお世話になっている施設の私の部屋の近くに昭和元年生まれの先輩で書道を楽しんでおられる方がおみえになり、その方と親しくなり、その人の筆による『教育勅語』のコピーを頂きました。オソマツ君 (私)は小学校3年が終戦で、それまで、始業式も終業式も白手袋を着用された校長先生の『教育勅語ご奉読』を頭 (こうべ)を下げて拝聴していましたので途中まではすらすらと読めました。確か小学3年生から修身という教科が始まり、そこではこの教育勅語の暗唱が義務づけられていたと思います。なかなかいいことが書いてあると思います。《参考までに書きます。ヤフーで検索すると、明治神宮社務所が「教育勅語」の読み方や口語訳を公開していますので学習に便利です。戦争に負けるということは悲しいことで、全国の学校を支えていた大黒柱であった教育勅語をあっという間に引き抜いて燃やしてしまいました。論語も燃やしました。変わって教育基本法という柱が学校に打ち込まれましたが、大黒柱とは程遠く今日の無残な学校を生み出しました。(週刊東洋経済社刊『学校が危ない』参照)教育基本法では「人格の完成」を強調していますが、人格の完成とはどういうことか答えられる人は多くないと思われます。イジメや学力低下が国民的関心事になっている今日、改めて教育勅語を皆で読み直してみましょう!!。《こう書くと一部の人から保守反動の軍国主義者というレッテルをはられますが・・・・・」。
上の教育勅語の毛筆筆者をSさんとお呼びするとSさんは驚くべき集中力の持ち主だ。作品の写真を見せて頂いた。百四歳になられた方へのお祝いに贈られた作品は、何と104という文字をを104個書く事によって、寿百四歳という文字を浮き上がらせたものでした。その上、寿は、朱色でした。この作品は左の方に「贈○○さま104才誕生日と楷書で書かれ額に納められていました。この作品の構想から完成までに想像を絶する緻密な計画がなされそれをやり遂げられた実行力にも頭が下がります。贈られた家でも「家宝」として大切にされたことでしょう。