悪夢にうなされ、ついに覚醒したときには全身汗まみれになっていた。意識は戻ったものの爽快感はまったくなく、なげやりな気分だ。俺たちの世代はまあいいか。子どもたちも、我々が過ごした時代とは格段に異なる激動の社会を生きているが、今しばらくはいいだろう。問題は孫たちの世代だ。
私にも可愛い孫が二人いる。おかげさまで恵まれた環境であどけなく育っている。エアコンの効いた部屋で、気のきいたおもちゃに囲まれ、嬉々として遊んでいるさまは、奄美の海域で、波紋に揺れる暖かな光を浴びながら、サンゴの間をのどかに泳ぎ回っている稚魚たちに似ている。だが、この子たちが巣立つころ、彼らを待ち受けている社会は、そして世界経済は、どうなっていて、彼らが生きていくために必要とされる資質は何になっているだろうか。老婆心の強い爺は、乏しい知識を駆使して考え込んでしまう。
能力のある少数の人は活躍の場に恵まれるが、多くの「普通の人」は不安定な生活を余儀なくされるだろう。その上、恵まれた人に求められる能力は10年ほどを単位として次々に変化し、恵まれた「活躍の場」では激務が待ち受けているだろう。能力ある人々は集められ、その中で激しい競争を強いられるからだ。今すでにその兆(きざ)しがある「能力のある人ほど心を病む社会」はその病状を悪化させ、治療の方途もない。
恵まれた環境で可愛がられて育っている今の孫たち、親からは「普通の人」として平穏な生涯を送ることを望まれている孫たちに、爺世代は最小限何を伝えておくべきだろうか。悪夢にうなされた老人は愚考に愚考を重ね、次の四つの徳目にたどり着いた。
①先ずは、「労を厭(いと)わない」ということだろう。体を使うにせよ頭を使うにせよ、にわかには結果が出ない疲労と消耗の中で、自分の労働を自画自賛できるオプチミズム。性急な結果に拘泥せず、自分の労働と疲労を尊いものと感ずる生命の燃焼力。爺は、孫がお絵描きにせよブロック遊びにせよ、長時間の作業を続けたとき、結果の如何を問わず激賞することにしよう。これは今流行の「好きなことを見つけさせる」という態度とは天と地の違いがある。沸々とした生命の燃焼力のない人が「自分探し」に出かけても、永久に自分は見つからないだろうと考えているからである。
②次は、世の中には「いろんな奴がいる」いるということを受け入れる心の広さだろう。善悪・好嫌に捉われず、あるいは日本人の好きな「身内か他人か」的な人物評価から脱却して、人間とは長所と短所の入り混じった厄介な存在であり、自分は常に回りの人から「人間とは何か」を学んでいるという態度。爺は、孫からクラスのできごとや友人とのやり取りを聞きながら、常に、「そう! 面白い子がいるねえ。そりゃ大変だ」と答え「こんど来たときまたその子のことを教えて」と応答することにしよう。孫たちが巣立つ社会は、価値観の多様化をはじめ国際化・個性化が進んでいる社会だろう。そうした多様な人々と関わりながら孫たちは自分の人生を刻むことになる。以心伝心の村社会の消滅は火を見るより明らかだ。
③「豊かな言葉と爽やかな身のこなし」。孫たちが就く職業が会社員の場合も自営業の場合も、変化の激しい経済界にあって、次々と新しい人たちとの出会いが待っているに違いない。そしてそこには「いろんな奴がいる」。そこで求められるのが「豊かな言葉と爽やかな身のこなし」だろう。言葉と所作は「育ち」と深く関わる。語彙を増やし文型を豊かにし、冗談も含めたTPOに即した表現力は、次世代の人々に求められる必須事項だろう。そこには「逃げる場合の身のこなし方」も含まれる。八方美人は本心と態度に乖離があるが、次世代に求められるのは、長所も短所も併せ持つ人格の存在を認めた態度であり、そこで自分を失わない距離感の形成力である。そこで爺は、歳端もいかない孫に対しても丁寧な言葉を使い、紳士・淑女として扱ってやろうと思う。この爺は、最近はやりの大人が使う幼児語を好まない。親密感は、非言語的な表現によって十分に伝わり、言葉が未発達な段階から子どもたちはそれを感じ取っていることを、爺は知っているからだ。
④そして最後に、これは孫が小学校高学年から中学生になったときに伝えたいことだが、「他人の意見を参考にするのに吝(やぶさか)かではないが、結論はゆっくり考えて自分で下す」という態度である。
爺は、孫たちが生きる社会でもっとも厄介な存在が「広告」とマスコミに登場する「評論家先生たち」だろうと思っている。広告も評論家も、新聞・テレビ・ネットを通して、あらゆる分野でまことしやかに人びとに近づき、耳元で甘い言葉を囁きかけてくる。
一つだけ例をあげておこう。2007年11月、『お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践 』という本が有名な出版社から出されてベストセラーになった。この本で勧められたことは 日本の銀行に預金するということは愚かなことで、外国通貨での債券・株式・不動産投資などを紹介したあと、要するに投資信託に回せということだった。ところが、この本が売れた10ヶ月あとサブプライムローンに端を発する世界同時不況で、株式をはじめ外国債券は大暴落。この本を信じて預金を動かした人は大損害を被ったはずだ。しかし、この本の著者は責任を追及されることもなく、現在も経済評論家として別の発言をしながら活躍している。
これには背景がある。沈黙の10年が過ぎ、バブル崩壊から20年の歳月が経過しても日本経済は低迷を続けている中で、1200兆ともいわれる国民の預貯金が金融市場に流れ込んだら、少しは景気が上向くのではないかと考えたグループがいて、その意向を受けてこの本が書かれていたからだ。グループの中心メンバーが金融業界の経済アナリストと呼ばれる人たちであったことは言うまでもない。彼らは有名な肩書の他に、スポンサー料という武器を懐にして、放送・出版業界に隠然たる影響力を保持している。そして彼らが第一に狙っていることは自分たちの業界の活性化である。
出版物も含めて、ソロバンを片手に肉食獣たちが、香りのよい餌を撒いて草食動物をおびき寄せているという構図が「広告」の中に潜んでいる。こうした商品の購入に当っては消費者の高い判断力が要求されているわけだが、現実には、売り手の側が圧倒的な情報を持っているのに対して、買い手の側は草食小動物の五感程度の情報分析力しか持っていない。市場経済の公平性を担保しているものは、売り手と買い手が同じ程度の情報を共有していることであるのに、現実には情報の非対称性は極度に進み、圧倒的な情報量を持つ売り手の側が、価値を創り、流行を作り、庶民の欲求を掘り起こすことによって利益を得ようとしている。
毎日流されるニュースやその解説も、「編集されたもの」つまりある意図をもって組み立てられたものであることを忘れてはならない。爺は、孫たちの人生がこうした売り手の側の情報によって弄ばれてはならない、と考えている。流行を知ることは必要だろう。うごめく多様な考えを知ることも大切である。そのために自分で選んで本を読むことも、お金を払って講演会に参加することも大切である。しかし最後は自分の観察と思考によって判断し、自分らしさを貫くしかないだろう。安価な情報ほど怪しいということを教えておきたい。その上「多数が賛成したことが、多数を幸福にするとは限らない」こと知ると、悩みは深まるばかりである。
サンゴに護られた楽園を出て、荒波の渦巻く大海に向かう稚魚たちに似て、孫たちが出あう社会も、妖怪がうごめきいつ床板をはずされるか分からない社会であろう。あの忌まわしいセフティー・ネットという言葉がそれをよく表している。この問題に対して、爺たちは目を背けることなく考え続け、気づいたことを少しでも「愛くるしい孫たち」に伝えて行かなければならないだろう。
軽率にも大きなテーマに取り組み、粗雑・冗長になった粗稿を畏友××氏に観て頂き貴重な助言を頂いた。ここに篤く感謝するとともに、なお至らぬ点の多いことをお詫びしつつ諸兄のご高評を仰ぎたい。
参考文献
・本山美彦著『金融権力』岩波新書
・金子 勝著『閉塞経済』ちくま新書
・金子 勝著『長期停滞』ちくま新書
・水野和夫著『金融大崩壊』NHK出版
・広瀬 隆著『資本主義崩壊の首謀者たち』集英社新書
・辰野和男著『ぼんやりの時間』岩波新書
・武田邦彦著『偽善エコロジー』幻冬舎新書 ほか