それ程仕事はしていませんが、暫く大人しくしていましたので落ち着きを失い、ちょっと何処かへいこうという気分になり、考えました。温泉+お酒+お刺身=富山、という方程式に従って富山へ来ています。昨日東海北陸道をのんびりドライブ、美術館(近々にご報告)に寄ったりして、温泉宿へ。今日は歴史保存地区である「岩瀬」を散策してきました。
江戸時代、ここは越中なのに加賀藩の領地で北前船が寄港する港町で、御倉が並び廻船問屋が全盛を極めた地区でした。明治6年の大火で650戸が焼失したと言われていますが、力強く復興し現在にその面影を残しています。
上の写真がこの町の喫茶店です。家業の「お休み処」の歴史は古く、“おはぎ”や“みたらし”がコーヒーやアイスクリーム変化したというだけのようです。塀の奥の剪定が行き届いた庭木に歴史の重みが感じられます。
青銅で作られた千石船の模型が路地に置かれていました。廻船問屋の一つ「森家」の居宅が、国の歴史的建造物に指定されています。(建物の正面は後日ここに貼り付けます)
中に入ってその豪華さに驚かされます。
この畳に敷き方、これは小川をイメージした配置で、畳の縁(へり)も川の部分は布を縫い付けていません。流れは「物流」の象徴で、家業の繁栄さえも表しているのだそうです。この囲炉裏を囲んで商談が進められたそうです。
参勤交代のとき加賀のお殿様が通られる街道に面していたため、森家といえども屋敷の間口はそれほど広くは取れません。そこで奥行きを広く取り、中庭も奥行きを深くし、中庭を巡る廊下も広く見せるために曲がり角の柱をはずすように設計されたとのこと。そこで生まれたのが「入り式廊下」。角に「入る」という字が並ぶ設(しつら)えで、「お客が入り」「ものが入り」「お金が入る」ように縁起を大切に、松の柾目(まさめ)板を使いこうした廊下を造って、商売繁盛も願ったのだそうです。角の柱もありません。下の写真がその部分です。
建てられたから100年以上経つのに、少しのひずみも出ていないとのことでした。
この他、豪華な設(しつら)えを沢山見せて頂きました。当時の北前船は決して「運送業」ではなく、動く「問屋」業だったそうで、入る港ごとに沢山の品物を売買(ばいばい)し、儲けを倍倍にしたのだそうです。残された資料でもとに、一航海での儲けを今日の金額に換算する1億5千万円にもなっていたそうです。オモシロカッタです。
以前、北前船では、船頭たちを労働者としてではなく、商人見習いとして雇い、自分の判断で少しの品物を売買することを許したため、才能うのある船頭は大いに儲け、他の船頭たちも勉強に励み、それを通して船主も各地の情報を幅広く把握することが出来た、と聞いたことがあります。現在も見習うべきだと思われます。
岩瀬地区を出て、日本海へ向かう。
深呼吸をし、砂浜を歩きまわる。夏場は富山市民愛好の海水浴場で、駐車場も休憩場所も整備されていました。正午、北朝鮮が失敗したというニュースを聞く。昼食は「キトキト寿司」と決めていましたからそちらへ向かう。
“キトキト”は「新鮮」という意味の富山方言。まあ“ピチピチ”とか“生き生き”と言ったところでしょうか。事実、美味しいお寿司でお値打ち。少々難をいえば、シャリが大ぶりすぎで、もチョット酢をきかせて欲しいなあ、と言ったところでしょうか。でもこれは個人の好みで、私の場合は好みが江戸型。上方好みの人にはちょうど良いのかも。