かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

トマト・ナス・キュウリの定植終了。

2012-04-25 | 気ままなる日々の記録

 昨日、初夏野菜の定植をしました。最近は見かけなくなった“行燈(あんどん)”もやりました。行燈は小さい苗のための防風装置で、我が家では60年前からこれをやっていました。もっとも、60年前にはビニール袋などなくて全部が茶色のハトロン紙で、支柱には竹を裂いて作った太い竹ひごを使っていました。ビニール袋がない時代、米も麦もジャガイモもハトロン紙3枚重ねの袋に入っていましたので、再利用をしていたということです。

  

 ついでに畑を紹介しますと、イチゴ、エンドウ、ジャガイモ、カラシ菜、キャベツ、玉ねぎなどが育っています。今年好調なものはエンドウです。下の写真は右がエンドウ、左がイチゴです。

       

       

 八重桜は、写真を撮るのが難しい花木だと思います。実際にはもっと豪華な感じですが、それがうまく撮れません。

 


オホホと、トホホと、その③と。

2012-04-22 | 気ままなる日々の記録

 まず「オホホ」から。庭の八重桜が満開になりました。昨年はこの花の甘酢漬を作りました。今年はどうしようか思案中。ついでに名前不明の花木も。この木の花を「紫式部のホニャラカ」と聞いていましたが、それが間違いであることが判明しました。

       

 次が「トホホ」。プラム(大石早生)の“フクロ実病”対策として、2月に「石灰硫黄合剤」をたっぷり散布しこれで万全と思っていましたのに、さっぱり効果なしと分かりました。

  

 上の写真は「接写」ですから、いわば拡大写真です。実際は小さな実ですが、もう先が尖って変に曲がりフクロ実病を発症しています。毎朝見ては「トホホ」と呟いています。自然は手ごわい相手です。本によるとフクロ実病の病原菌はカビの一種で、幹の皮の隙間で越冬し条件が合うと猛烈に増殖し花芽の感染するとのこと。こうなると来年の冬は、周辺の落葉や土壌の消毒をしなければならないのだろうか。

 その③(富山からの報告、最終回)

  

 上の写真は4月12日東海北陸自動車道飛騨河合PAの情景です。雪の多さと車の少なさに驚きました。
 今回は初日に訪れた「富山県水墨美術館」を報告します。この美術館は富山市内にあり、特別企画平山郁夫展を開催中だということで尋ねました。感銘を受けたのは先ず建物、そして庭、さらに中にある茶室、でした(平山さんの絵については敢えて触れません)。

  

   

  広い敷地にふっくらとした和風の屋根、庭の植木は松と桜のみ。手入れの行き届いた芝生が広がりと落ち着きを表していました。
 一番奥まった所には茶席。しかも野点(のだて)用の茶道具が置かれていました。

      

 いつもの日は厨房で点てたお茶は出されますが、イベントの日には全てを芝生の庭に出し、富山市内茶道会の師匠のお手前が披露されるのだそうです。私たちにお茶を運んで下さった和服のご婦人が、そのことをとても楽しそうに話して下さった中から、私は富山の素晴らしさを感じました。


“骨休め”して来ました。その2

2012-04-17 | 気ままなる日々の記録

 先回の「その1」への補足を2点させて下さい。最初は「森家の正面」です。当日は観光客が多くて全景をカメラに収めることが出来ませんでした。そこでチケットの写真からコピーしたものを掲載します。

  

 確かに億万長者の家にしては道路面が狭いです。しかし、先回書きましたように奥行きがすごいのです。

 2点目は先回紹介した「北前船」の利益金です。私は一回の航海での利益金が1億5千万と訊きましたが、同行者は「一年の利益金」と訊いた、と言うので帰ってから電話で確認しました。正解はは同行者での方で、年間利益が150,000,000円でした(1両15万円で換算)。

 最終日は午前中が小雨。フロントで富山の松川の桜は有名でツアー客も多く、今が満開と聞きましたので出かけました。  

 往復30分の遊覧船(大人一人1500円)が出ている程の人気スポットで、私たちは傘をさして歩きましたが最高でした。遊歩道もよく整備されていました。でも何よりよかったのは、“人出がまばら”という点だったと思います。

  

 

 道沿いのお店は開いていて、お客さんもほどよく入っていました。街全体がとても落ち着いていて、人がまばらですが、決して“さびれた”感じはしません。本当に落ち着いた街でした。ここは加賀前田家の分家が城をかまえた10万石のご城下。とても好きになりそうな町です。

  

 豊臣と徳川がいろいろ駆け引きをしていたころ、越中城主佐々家は、「徳川方に寝返った」ということで秀吉の逆鱗に触れ、追放。このお城は加賀前田お預けとなりました。やがて徳川の天下となったとき、120万石もの領地は徳川の不信を買うと、自ら領地を割って徳川の信頼を得ようとしたことによって越中前田が生まれました。従ってこのお城には天守閣がありません。

 

 帰り、世界遺産の五箇山を通りました。

  

 上の家は、昼食を頂いたお店です。ここでは純粋の家庭料理が出されました。山菜の煮付け、五箇山豆腐の煮付け、などなど。山菜と言うとすぐに天麩羅というのが“おもてなし”のようにたっていますが、私には“煮付け”の方が数倍も美味しく思われます。

  

 村内を散策しました。雪が多いのに驚きました。白川郷は世界遺産登録後急速に観光化が進み、何かが失われたような気がしますが、五箇山はそうした部分が少ないように思われました。それだけに住民の方々のご苦労が多いのではないかと思われます。

 

 ここに住めと言われたら尻込みするくせに、観光で訊ねるのは好きで、偉そうに「護れ!」「残せ!」と勝手なことを言うのだけは慎みたいと思うのですが、大震災や原発のことを思いますと、尻込みする自分をもう少し問いたださないといけない気もします。


“骨休め”しています。その1

2012-04-13 | 気ままなる日々の記録

 それ程仕事はしていませんが、暫く大人しくしていましたので落ち着きを失い、ちょっと何処かへいこうという気分になり、考えました。温泉+お酒+お刺身=富山、という方程式に従って富山へ来ています。昨日東海北陸道をのんびりドライブ、美術館(近々にご報告)に寄ったりして、温泉宿へ。今日は歴史保存地区である「岩瀬」を散策してきました。

  

 江戸時代、ここは越中なのに加賀藩の領地で北前船が寄港する港町で、御倉が並び廻船問屋が全盛を極めた地区でした。明治6年の大火で650戸が焼失したと言われていますが、力強く復興し現在にその面影を残しています。

  

 上の写真がこの町の喫茶店です。家業の「お休み処」の歴史は古く、“おはぎ”や“みたらし”がコーヒーやアイスクリーム変化したというだけのようです。塀の奥の剪定が行き届いた庭木に歴史の重みが感じられます。

  

 青銅で作られた千石船の模型が路地に置かれていました。廻船問屋の一つ「森家」の居宅が、国の歴史的建造物に指定されています。(建物の正面は後日ここに貼り付けます)

 中に入ってその豪華さに驚かされます。

  

 この畳に敷き方、これは小川をイメージした配置で、畳の縁(へり)も川の部分は布を縫い付けていません。流れは「物流」の象徴で、家業の繁栄さえも表しているのだそうです。この囲炉裏を囲んで商談が進められたそうです。

   

 参勤交代のとき加賀のお殿様が通られる街道に面していたため、森家といえども屋敷の間口はそれほど広くは取れません。そこで奥行きを広く取り、中庭も奥行きを深くし、中庭を巡る廊下も広く見せるために曲がり角の柱をはずすように設計されたとのこと。そこで生まれたのが「入り式廊下」。角に「入る」という字が並ぶ設(しつら)えで、「お客が入り」「ものが入り」「お金が入る」ように縁起を大切に、松の柾目(まさめ)板を使いこうした廊下を造って、商売繁盛も願ったのだそうです。角の柱もありません。下の写真がその部分です。
建てられたから100年以上経つのに、少しのひずみも出ていないとのことでした。

          

 この他、豪華な設(しつら)えを沢山見せて頂きました。当時の北前船は決して「運送業」ではなく、動く「問屋」業だったそうで、入る港ごとに沢山の品物を売買(ばいばい)し、儲けを倍倍にしたのだそうです。残された資料でもとに、一航海での儲けを今日の金額に換算する1億5千万円にもなっていたそうです。オモシロカッタです。

 以前、北前船では、船頭たちを労働者としてではなく、商人見習いとして雇い、自分の判断で少しの品物を売買することを許したため、才能うのある船頭は大いに儲け、他の船頭たちも勉強に励み、それを通して船主も各地の情報を幅広く把握することが出来た、と聞いたことがあります。現在も見習うべきだと思われます。 

  岩瀬地区を出て、日本海へ向かう。

  

 深呼吸をし、砂浜を歩きまわる。夏場は富山市民愛好の海水浴場で、駐車場も休憩場所も整備されていました。正午、北朝鮮が失敗したというニュースを聞く。昼食は「キトキト寿司」と決めていましたからそちらへ向かう。

  

 “キトキト”は「新鮮」という意味の富山方言。まあ“ピチピチ”とか“生き生き”と言ったところでしょうか。事実、美味しいお寿司でお値打ち。少々難をいえば、シャリが大ぶりすぎで、もチョット酢をきかせて欲しいなあ、と言ったところでしょうか。でもこれは個人の好みで、私の場合は好みが江戸型。上方好みの人にはちょうど良いのかも。


略称「東大話法」を読みました。

2012-04-09 | 気ままなる日々の記録

   一昨日までの3日間は異例の寒さ、それでも倒れた木の片づけやトウモロコシの本植えなどをしましたが、あとは“巣ごもり”。ごろごろしながら本を読んで過ごしました。

 そこで、今回は最近読んだ本をとりあげます。最初は、安富 歩著『原発危機と東大話法』明石書店発行。
2012年1月15日初版で、私が買ったものが2012年3月1日初版第5刷ですから、相当なベストセラーの気配です。《私は最近、ほとんどの本をオンライン書店 bk1(ビーケーワン)で買っています。定価通りの価格でコンビニ後払い、注文後3日程度で届きます。近くの書店ではお目当ての本が見当たらないことが多く、名古屋まで出ると一日仕事になってしまいますので……》

                

 現東大教授による“東大批判”で、特に今回の大惨事発生の原因は、東大の原子力工学科の無責任ともいえる体質にあると糾弾しています。分かりやすい文章で、記述はすべて具体的です。「東大話法規則一覧」というまとめ方も読者を惹きつけます。規則1:自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。規則5:どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。規則7:その場で自分が立派な人だと思われることを言う。規則12:自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。などが規則で、その具体例が示されます。どの例も実名入りで出典明示、著者の補足説明で読者は100%納得します。
 私も今回の原発事故に関しては、避難をよぎなくさせられている地元住民な方々の胸中を思うと、いたたまれない思いで、責任の所在を明らかにしなければ、前え進めないと思うのですが、その議論は一向に進んでいません。その意味でこの本は「国民必読の書」と言ってもいいように思います。
 しかし、読後感は決して爽やかではありません。日本語の歴史の中で“立場”という言葉の意味がいろいろ変化したという筆者の考察には鋭いものがあるとしても(特に沖縄戦で戦死された渡辺中尉が書いた妻への手紙の中の“立場”の考察)、現代社会に生きている私たちが簡単に“立場”や“職業”から自由になれるとは思われません。私自身も“立場で考える”ことがよくありますし、時には自信満々の振りもするわけで、著者のようにはいきません。中でも、重い問題提起は「傍観を客観と取り違えている」という指摘です。傍観の得意な私には、きつい話です。
  

 「日本語雑記帳」は楽しく読みました。ある意味では“年配者向き”かも知れません。話し方が時代とともに変化していることを、身近な例で具体的に紹介しているからです。著者は現在80歳でしょうか、今なお研究に余念がなく、沢山のコラムを書いておられます。教科書の中の敬語の変化、NHKアナウンサーの言葉の変化、外来語の変化など、我々が膝を打つ例が沢山紹介されていますが、若い人たちには奇異な感じられることでしょう。
 「平成不況の本質」の方は、ちょと“?”を付けておきます。バブルが弾けて20年、ちょこちょここうした本を読んで来ましたが、疑い深い私を納得させる本に出会っておりません。一番納得した本は「資本主義以降の世界」中谷 巌著でしたが、ちょっと迂遠すぎます。経済学という理論が“破れている”のではないかという気さえします。

 最後にちょっと変わった本。

  

 新潮文庫です。著者は美大卒のイラストレーター。舞台装置を手掛けたりエッセイや小説も書かれる多彩な芸術家。シズコさんは主人公(著者?)の母親という設定で、障害を持って生まれた兄弟を持ちながら、その兄弟の世話をすべて妹に任せ、自分は「東大出の男と結婚する」と宣言してそれを実現し、障害のある兄弟を「親戚の人」と呼んでしゃあしゃあしている母親に反発する主人公でしたが、年を重ねるごとに、母親を許し、母親が痴呆になってから添い寝をしたりするという小説。私には、面白かったです。

 


“急速に発達した低気圧”にはタマゲました。

2012-04-04 | 気ままなる日々の記録

 昨日の午後3時ごろの「急速に発達した低気圧の通過」には驚きました。気象情報で980ミリバールとの予想が出ていましたので“台風並みだな”とは思っていましたが、何しろ変化が急で、突然の突風(「突然だから突風だよ」と言わないでください。それよりもっと突然だったんだから)に、突然の豪雨、一時は明らかに雹でしたが、つまりは雹と豪雨のミックス。見る見る庭は池になり、裏の道は川になりました。ただ茫然と眺め、その後家中の雨戸を閉め、小物が飛ばされないように見て回ったりしていました。(写真を撮らなかったことを今悔やんでいます)
 風雨が収まったところで、労をねぎらうため、近くの立ち寄り温泉に出かけました。

 被害は二か所でした。

       

 右の「ペンシル・ロケット」という名の木ですが、これが倒れてしまいました。(昨年の台風で倒れた枝垂れ柳は無事でした。)この木は、ヨーロッパ地方の街路樹でよく見かける木ですが、ここは畑地で柔らかいから、大きくなると倒れやすいのかも知れません。もう切り倒すしかないかなと思っています。左が自作の通用門。支柱が角材で埋めてありますので腐ったのでしょう。作って5~6年にはなります。今度はコンクリート製か樹脂製の支柱にしようと思いますが、木製の門扉との接続に知恵と技が必要のようです。

   

   

 あの嵐の中で、柳に風と、ビクともせずに花を咲かせたのは、プラムでした。暖かかったからです。石灰硫黄合剤でタップリ消毒をしましたので、今年は大丈夫だろうと思っていますが、でも心配なのはフクロミ病です。

   

 沈丁花も満開を迎えようとしています。そばを通るといい薫りです。

 今日はまだ天候不順で、今挑戦中の「BGM付きのスライドショー」の制作作業をしました。なかなか思うように進みません。