若いころ、大学への進学を希望している生徒の多い高校で数学の教師をしていた自分が、今盛んに反省している。
きっかけは、新潮文庫加藤陽子著「それでも日本人は「「戦争」」を選んだ」を詠んだことである。
加藤先生は東京大学の教養部で日本の近代史を講義しておられる。授業中に黒板に書く予定の原稿は全てオーバーヘッドを使ってスクリーンに映し出され、その原稿をコピーして学生に配布してから授業に入られたという。
学生が黒板に書かれたことをノートに写すことに必死になり、ノートを取ることが授業を受けることと錯覚しないようにするためだそうだ。
授業を受けるということは先生の話を考えながら聞くことであって、ノートを取ることはその手助けである。極論すれば、受講することと筆記することは無関係だとお考えであることがわかって、強い衝撃を受けた。
オソマツ君は現職の頃、教科書の例題を解きながら黒板一杯に計算を書き生徒はそれを必死に写していた。
そんなことなら、黒板に書く原稿を用意し、それを生徒数だけコピーして配布しその解説にこそ時間を掛けるべきだったといま反省しているのである。
少しだけ言い訳をすれば、オソマツ君が高校・大学で受けた数学の授業は、全てオソマツ君風で加藤先生のような先生は一人もお見えにならなかったことも事実である。反省しながら、これこそが世に云う「死んだ子の年は数えるな」だなあと苦笑している。(T)