所属する同業退職者のサークルが、月刊の会報を出していて、順番に執筆の依頼が来ます。原稿の締切が9月20日の私の駄文が10月号に掲載されました(ホームページで公開)。それを転載します。
「行動原理主義」と「情緒原理主義」
どうにも寝覚めの悪い事件報道があります。それは大津市の中学2年生の自殺に関する記事で、自殺に追い込まれたほどのイジメがあったのに、学校は何ら的確な指導もせず、その上、管轄の教育委員会も「自殺の原因がイジメだと断定できない」と自己保身にきゅうきゅうとしているというものです。最初は、信じられないことばかりで、何処か外国での出来ごとかと訝(いぶか)られるほどでした。
どうにも気になって、少しでも真相に迫ろうと新聞記事の切り抜きを作ったり、広告を見て週刊誌を買いに走ったりしました。この事件は、近所の人との雑談で取り上げられることは必定で、その時きっと意見を求められると思えたからです。
しかし暫くして私は記事の収集をやめました。どの記事もほとんど同じトーンで、いくら集めてもそこから何も見えてこないと気づいたからです。それに、どの記事も品性に欠けるといいますか、無作法といいますか、教育の問題を語るときの必須条件である不用意に誰かを傷つけていないかという配慮が全くなされていなくて、短絡的に出された結論に沿って記事が書かれていたからです。
もう50年も前のことになりますが、近隣の県で女子高校生の自殺があり、彼女が所属していた運動部の顧問の指導が厳しすぎたからだと新聞で糾弾され、その先生はついに辞職するという事件がありました。そのころのマスコミは何につけも「軍国主義教育反対」を合言葉にしていました。(管理主義教育反対はもう少し後)
それから半年ほど過ぎて、あるプライベートな研究会で、責任ある地位の人から、自殺の真相は彼女の妊娠で、遺体検死時にそれが分かり、親も教師もその時はじめてそのことを知らされたのだが、彼女のために関係者は秘密を護り通したということでした。
報道は常に、①誤りを犯していないか、②多角的な視点で読者が正しく判断できる情報を提供しているか、③その視点は本質に迫り究極的には建設的であるか、などの観点の有無が私のいう「品性」や「作法」ですが、近ごろは大新聞も週刊誌もお笑いタレントのテレビ番組も、ほとんど同じというほかありません。
大津の事件で私を暗い気持ちにさせているのは、義務教育最後の教育機関としての中学校で、わが国の骨格に関わる「人権教育はどうなっているのだろう」という視点です。遊びとイジメの境界は「人権」という視点を欠いてどれほど議論しても無駄で、カウンセラーが出てくる世界ではないように思えます。「人権教育」には、何があっても人権を犯してはならないというと教育と、人権を犯された個人が、その強者たる相手にどう立ち向かうべきか、という権利行使の教育も含まれているように思えます。
こんなに大上段に構えないとしても、その中学校の生徒手帳に「禁止事項」として何が書いてあって、罰則規定はどうなっていたか、今回の事件で至らない点があったとしたら、どこをどう改正すべきか、という論考も欲しいところです。あるテレビのコメンテーターが述べていたように、これからは先生方がどんどん警察に届けを出すという提案は、これからの学校や教育をどう考えるかと併せて総合的に考えるべきだと思えます。
ここでまた思い出すことがあります。それは1999年2月に発行された河上亮一著『学校崩壊』(草思社発行)の中で述べられていた一文です。
その文を引用する前に少し著者とこの本の紹介をしておきます。河上氏(1943年生まれ)は異色の人で、東京大学経済学部を卒業と同時に埼玉県の中学校教師となり、荒れ始めた中学校で独自の指導法の確立に努め、「プロ教師の会」を立ち上げるとともに評論活動も展開し、小渕内閣で総理直属の機関として発足にした「教育改革国民会議」の委員も務めた人です。
1994年11月、愛知県の中学2年の男子生徒が自殺、残された遺書によって同級生から激しいイジメにあっていたことが明らかとなりました。その後、全国的に同様の自殺が相次ぎ、荒れた学校とイジメの問題が大きな社会問題となり今日に至っています。本書のタイトルもそうした状況を意識してつけられたものです。
本稿では、この本の最後の方に出てくる「NHKの報道番組『広がる学級崩壊』を批判する」という章を紹介します。
この番組では、NHKのカメラが1ヵ月間ある中学校に入り、自由な撮影を許され、教師たちの毎日の活動を会議の様子も含めて記録し、それが全国に放映されました。河上氏は撮影を許可したその学校の勇気に拍手を送っています。
紹介された内容は、①担任を「くそババア」とののしる生徒、②授業中ゾロゾロとトイレに立つ生徒、③授業中突然大声を出して、教室を出て行く生徒 などなどでした。
河上氏は、NHKがこの番組の最後を次のようにまとめていることに落胆しています。
「いまの子どもたちの不満やストレスはじつにさまざまな顔をもっています。暴力と言う顔をしていることもあれば、かまってほしいという甘えのかたちをとることもあります。……そうした多様な心の表情を一人の先生が読み取っていくことのむずかしさを改めて感じます。……先生同士がきめこまかく連携することで子どもたちの心に向き合おうとしています。ただ荒れるのを抑えるのではなくて、なぜ荒れているのかを見つけることで、子どもたちの心の訴えに気づこうとしています」
なんと美しい先生方の姿、とまず賞賛すべきでしょうか。しかし、生い立ちも性格も異なる生徒たちが、欲望の赴くまま自己中心的に動き始めたら、生徒理解の及ぶところではありません。河上氏は結果的に「出来もしないことを要求している」といい「現状をきちんと見ていない」と落胆しています。氏はこのあと、我慢できない子どもや他の子どもと一緒に生活することが難しい子どもが増えたことを直視し、親の協力を仰ぎながら規律の回復を中心に学校全体で取り組む必要がある、と訴えています。
この本を読んだとき、私も同様にNHKのこのまとめに落胆し、更に狭量な私はこのNHKのずるさやいい子ぶりに怒りをさえ感じたことをよく覚えています。
1994年からすでに20年近くが過ぎようとしているのに、教育問題を扱うマスコミの姿勢は相変わらずです。それは、端的に言えば、一方では品性を欠いた短絡的な報道と、他方には美しい言葉を羅列した「言葉」「遊び」の「世界」ということでしょうか。まだまだ「トンネルの中」は続きそうです。
「言葉遊びの世界」に関して少し追加します。ここに2000年発行の中山治著『無節操な日本人』(ちくま新書)という本があります。
あら筋はこうです。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も儒教も、人間が守らなければならない戒律は神から与えられていて、人間の心(気持ち)と関係なく守らなければならない。こうしたスタイルを「行動原理主義」と呼ぶことにします。
一方、日本は本来的に多神教で、神からのそうした強制は何もなく、古代からの唯一のテーゼは聖徳太子の「和をもって貴しとなす」に示されるように人間の心(気持ち)を揃える努力をしようという考え方をします。こうしたスタイルを「情緒原理主義」と呼ぶことにします。この後の分析もなかなか面白く一読をお勧めします。お求めはネットの古書通販が便利です。
社会の変化に伴ってどんどん変わる教育環境に対して教育活動はどう展開されるべきか。この問題も「行動原理主義」的に考えないとトンネルから出られないのではないか。心配しています。
中山氏も、ヒト・モノ・カネが国境超えてを瞬時に動く時代になって、わが国は「行動原理主義」のジャングルに入っていくことになるが、「情緒原理主義」では餌食になるだけと心配しています。
(完)