かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

「仕方がない」ことは「仕方がない」でよお。と云われてしまいました。

2015-06-05 | 気ままなる日々の記録

織田信長が,少ない手勢で本能寺に宿泊中に明智光秀の謀反にあったとき「是非もなし!」と云ったとか。さすがである。「是非もなし」≒「仕方がない」さすが信長は大物で光秀に対してくどくど恨み言を云わなかった。

オソマツ君は今日、歯科の往診受診日でした。先生がお待ちの診察室に入り車いすから、歯科の受診台に移らなければならないとき、手すりや留まり木がなくて、苦労しました。その時、歯科の先生が,車椅子を持っていて下さったり、体を支えてくださったりしたので、「先生すみません。こんな体になってしまって、先生に車椅子を持って貰ったりして」と謝ったら、先生に「仕方がないことは、仕方がないで、いちいちそんなこと云わんでいい」と注意されてしまった。その時の先生の声が耳の中に定着してしまった。確かに「仕方がないことは仕方がない」

子どもは親を選べない。頭の良し悪しも、性格の良し悪しも親や子供の時の生活環境の影響が大である。その意味ですべての子どもがあるべくしてあるのであって子どもの責任ではない。そして大人も今ある状態が自然のままの状態で、それを丸ごと神に感謝しなければならないと思われる。

 オソマツ君は「仕方がないことは、仕方がない」この言葉を、をこれからの余生の指針にしようと思うに至った。歯科の先生、ありがとうございました。

その意味で昔学校で教えて頂いた「なせば成る。成さねばならぬ、何事も。ならぬは人の成さぬなりけり」という諺は罪深い言葉であると思い始めた。[仕方がないことは、仕方がない]の方が温かみがあると思われます。いかがでしょうか?

 極端な言い方をすれば、神は、全ての責任を、社会の底辺で苦しむ小さな人間の肩に乗せられて「適者生存」と言い放って逃げられた、と云えなくもない。キリスト教で云う「原罪」である。しかし、キリスト教徒ではないオソマツ君は、神の無責任を責めるのではなく、それを、受容しようというのである。。[仕方がないことは、仕方がない]と云って。

追記;ただ今6月18日午前1時23分これを書き加えています。と云いますのは、今から数時間前、NHKテレビで本能寺の変をやっていて、信長最後の言葉を「是非に及ばず」と云っていましたので。謹んで訂正させていただきます。でも意味は同じで「これも運命」というような意味だと云っていました。これは、信長に仕え「信長候記を書いた筆者が事件後、信長に仕えていた女たちに逢って聞いたと書いているそうです。更に女たちは信長公候は「わしに構わずわしから離れて早く逃げよ」と命令されたといいます。やはり、信長は偉大なリーダーでした。

 

 


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