9月19日の読売新聞『編集手帳』に次のような記事がありました。
洋画家梅原隆三郎は遺言状に《葬式無用、弔問供物固辞、生者は死者のために煩わされるべからず。》画業そのままに、何と雄渾で潔い言葉だろう。弔問・供物はともかくも亡主人のためにあれこれ思い煩うのが世の生者に違いない。友をなくせば、晩年の無沙汰を悔やみ、父母をなくせば、身の不孝が胸を刺す。・・・・
筆者《オソマツ君)は梅原さんやこの記事の筆者の論調に全面賛成であるが、ただ一点
葬儀は死者のためではなく、遺族のために行われているという自明の視点が見落とされていると思う。遺族が気が済むようにすればいいわけで、死者が遺族の立ち位置を知らずに個人的見解を遺族に強制していいものかと思う。ここで云えることは、故人は梅原さんと同意見であることを表明しておくことだけである。
葬儀を簡略にするために、遺言があると便利だと云うなら、ここに、故人の遺言作成権を子どもと配偶者に委譲しておく。
だから、好きなように遺言を作成して、その遺言に沿った葬儀にしてくれればよい。断っておくが遺言作成権は葬儀に関してのみの委譲であって、相続権に関しては既に用意してある「遺言状の[公正証書』」のとおりとする。と付記してみたがどうだろう。
祭壇を豪華にしたり、お坊さんの人数を多くしても何のことまないという事実は一般常識化してきていると思われますが、それ以外の世俗的価値観に拘る人もまだ多い時代でもある葬儀そのものを、株式会社が請け負う時代である。
この株式会社は沢山お金をかけてくれる葬儀を推奨ようとしていることもまた事実である。この葬儀屋さんの進出によって、江戸時代から続いた葬儀形式がやっと変化し始めた所であるという視点も成立する。(T)
「蓮池の糸トンボ」綺麗な四枚の羽根と緑色の胴体に魅せられました。
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