目指せ華麗な七十代!

旧mandalaflowerからタイトルを替えました。今から始まる七十代をより華麗に生きる覚悟です。

世の中に取り残されている

2019-02-13 | 日記
いいお天気です。

季節はいつのまにか早春になってますね。

もう水仙も芽吹いています。


一番気持ちの良い季節ですね。


暖かい日がありがたいし、日が長くなるのも嬉しいのです。


季節の移り変わりはなんと心を豊かにしてくれることでしょう。


今朝はまたパンを焼きましたが、とても綺麗に出来上がり、上機嫌です。

先日焼いた干し柿のパンは失敗。

どうしてこうなるの?

思い通りにいかなくてしょげました。


パン作りもすっかり生活の一部になっているけど

出来上がりがいつも違うので

その度に一喜一憂できる良い遊び道具と言えるかもしれません。


今日は午後から久しぶりに日帰り温泉に行くつもりです。

今月初めに友達とちょっと遠出をして遠くの温泉に出かけました。


信州の下伊那地方には三桁の国道が二本通っています。

一つは豊田市方面へ、一つは豊橋方面です。


このあいだの温泉は豊田方面の道沿いですが、

土曜日だったせいかとても混んでいました。




普段私たちがよく行く温泉は国道沿いではありません。

だからというわけでもないでしょうが、

いつもガラガラなのです。


だからその混雑ぶりにびっくりしました。


山の中の暮らしはどこに行っても静かです。

そんなにたくさんの人を見ることはあまりありませんね。


だからあっちの温泉で家族連れとか、いっぱい見かけた時には

一瞬バブルの頃に戻ったような気持ちになりました。


もしかしたら世間は私が考えているよりずっと賑やかなのかもしれませんね。

外国人観光客も多いのでしょ。

山の中でのんびり暮らしていると世の中の賑やかさに取り残されているのかもしれません。


この谷から滅多に出ることがない私には

このあいだの出来事はいい刺激になりました。


久しぶりに世間を垣間見て、驚いたのと嬉しかったのと、同時に

やっぱり静かな方がいいや、と納得しました。

今日これから出かける温泉は

いつものように静かに違いありません。

落ち着きます。


広い温泉に私一人って時もたまにあるのです。

混んでいる時でも十人くらい。

経営は大丈夫かしら?と

心配になる時もあります。


それでも近在では一番人気のお風呂んですよ。


サウナ室でのんびりしながらインドの思い出に浸りましょうか。





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インド一人旅の思い出・美しい思い出ブッダガヤ

2019-02-12 | お題


初めての寝台列車に乗って私は次の目的地ブッダガヤです。

列車の旅はまあまあ快適でした。

初めは緊張があって眠れないかと思ったけれど、

鉄道のあの独特のリズムをを聴きながら目を瞑っていると

いつの間にかぐっすりと眠ってしまったようです。

あたりがざわつく音に目が覚めた時はもう夜が明けて、

列車の中にもうっすらと朝の日の光が差し込んでいました。



大陸の夜明けは朝靄のかかることが多く、日の出とともに赤みを増す空の色が

その靄を通してロマンチックな優しいピンクに見えるのです。


朝もやとともに開けていく一日。

それは私の大好きな光景でした。


だからインドにいる間は早起きをして居ました。

一人旅のつまらないところは

あまり夜遊びができないところです。

女一人の夜遊びはやっぱりどこの国でも危険が伴うのです。

インドの夜は賑やかでとても楽しいのですが、

連れがいる時にした方が無難でしょう。

でも朝が素敵だからその美しい瞬感をいっぱい楽しみました。

それに何より、誰かに教えてもらったことがあります。

悪事を働く者は大抵夜に仕事をする、早朝は寝ているはずだから

早朝は悪者のいない一番安全な時間なのだ、とね。


インド滞在中、いつも頭の片隅に警戒心を持っていました。

日本でこんなことは滅多にありませんね。

だって平和ですもの。

泥棒もいるだろうけどコソ泥はあまりないでしょう。

田舎なら家の鍵をかけずに出かけても問題ないくらいです。

インドはどこに居ても油断できません。


私だって何度かコソ泥の被害に遭っていますし、コソ泥未遂の楽しい話も知ってます。

びっくり仰天。

多分きっとここでしか起こらない出来事じゃないでしょうか。

でもその話はまた後ほどにしておきましょう。

警戒心を持ちながら日々を生きる、のがインドの旅の面白さなんです。

物見遊山だけでは済まされない奥の深さがある旅の面白さ。

インドを旅した人の根底にはこの国の在り様をこよなく愛する心があるのだと思います。


日本では決して見ることのできない自分が見える事も楽しいのかもしれません。


列車がガヤの駅に着いたのは昼下がりの一番暑い時でした。

その日の目的地は実はここから何キロか離れた

ブッダガヤという場所だったのでここには泊まらないつもりだったのです。


でも鉄道の遅延でもう午後になっています。

お腹も空いて居ます。

結局私はガヤで一泊することにしました。

ブッダガヤへは明日出発します。


インドの旅って本当に予定通りには行きませんよね。

それもまた楽し、と思うのが旅の醍醐味でしょう。

ガヤ街ののことはほとんど覚えていません。

結構ガヤガヤして居た印象はあります。

地方都市なのでバスや車も多かった気がします。

覚えているのはわずかに

泊まった宿のおじさんの風体と

その部屋から見た駅前の喧騒だけですね。

宿はバスターミナルの近くでした。

様々な方向に行く乗り合い乗用車や馬車が好き勝手にたむろしている風に見えました。


私は馬車に釘付けになりました。

聞けばその馬車でブッダガヤまで行けるようです。

馬車で行けるなんて、素敵です。

日本なら観光地でしか乗れない馬車で

旅から旅へと移動です。

なんてロマンチックでしょう。

こんな事なかなかできない経験です。

誰だって当然馬車に乗るでしょう。



まあ、馬車と言ったって乗り合いですけどね。


その馬車で行けば目的地まで二、三時間くらいかかったのでしょうか。

その辺ちょっと覚えていませんが、遥か遠くまで野や畑や丘が続いて行く大地を縫うようにして

馬車は進んでいきました。

一本道でした。

一本道というのもいいものです。

広い大地に一本だけ道がついて居て

皆がそこを通ります。

一本道を行く経験も日本ではあまりないですよね。

なんてことはないのだけど、だた気持ちがいいのです。


当時は途中に町らしきものはなかったと記憶しています。


ブッダガヤはお釈迦様が悟りを開いた場所です。

そこにはその沖の下で悟りが開かれたと言われる菩提樹の木があり、それを囲むように寺院もあります。

インドの古い遺跡のようなお寺でした。

私が訪れた時には本当に小さな村でした。


でも今やホテルとかできてとても賑やかになっているようです。


私が行った時にはお寺以外にはほとんど何もなかった気がします。

ホテルなんかなかったし泊まるのはその周りにある寺の宿坊だけ、

私はネパール寺院の宿坊に泊まりました。

五ルピー(百円ちょっと)くらいだったと思います。

まだタイのお寺もブータンのお寺もありません。

今はカラフルなお寺や土産物屋がいっぱいあって

以前とは色調がすっかり変わってしまったようです。

私が当時泊まった部屋はネパール寺院の宿坊でした。

部屋は暗くてドア以外はその横にある窓だけです。

そこからw塚に外界の光が入り込んで居ます。

暗い石の部屋でした。

ベッドが一つあるだけで奥にシャワーとトイレがついて居ます。

もちろん水シャワーで

窓には御多分に洩れず鉄格子がついています。


インドでやだなと思ったのはどんな金持ちの素敵なおうちでも

窓には鉄格子。

鉄格子があると刑務所とか、動物園とか、

とにかく檻に閉じ込められている印象が強すぎますよね。




私がその日ネパール寺院の宿坊で

初めて知ったのは日本製の蚊取り線香の威力でした。

蚊帳がなかったので夜の蚊の多さには閉口しました。

でも私はガイドブックに推奨された

日本の金鳥蚊取線香を持参していたのです。

窓際のちょっとしたスペースに蚊取り線香を置いて寝ると、

朝起きてびっくり。

線香の周りには大量の蚊の死骸が転がって居ました。

まさに大量殺戮です。

日本製蚊取線香おそるべし、!


実はね、知る人ぞ知る話ですが、

アジアの国で日本製の蚊取り線香はスーパースターなんです。

これほどの殺傷能力はインド製やタイ製にはありません。


メイドインジャパンの猛毒です。

だってタイ国では金鳥の蚊取り線香の箱には大きなドクロマークがついて居ますのよ。

その威力を異国ブッダガヤで知ることになろうとは。。。。

でもここではた、と気がつきました。

この毒を、

睡眠中、私自身も吸っているのか。。。。。?



私たち日本人はこんなに強力な蚊取線香を

結構昔から使っていたその傍らで

マスクもせずによく寝て居たものです。

ある時期からは電気で無臭。

睡眠中どれほどの毒を吸引してきたか、

全く無意識でした。

でもこうして目の前でその威力を見るとちょっと怖くなったのです。

それ以来蚊取り線香には気をつけています。


ブッダガヤは物凄い数のハエもいました。

寺院の石のレリーフが遠くから見ると真っ黒です。

何だろうと思って近づくと

止まっていたハエが一斉に飛び出してそのうるさいくらいの羽音が聞こえるのでした。

その数には本当に驚きました。

見たことがないハエの数。

本当に真っ黒。

それが蠢いているように見えるので目を引くのです。

そうですよ、無数の生きているハエが手をこすったり足をこすったり。

あの時以来あまりそういう光景にお目にかかったことがありません。



村のレストランにもハエ取りのリボンが下がっていたのを思い出します。

ハエ取りリボン、

シニアならご存知ですよね。

粘着剤の塗ってある紙のリボンを天井から下げて

飛んでいるハエをくっつけて捕獲するものです。

昔は日本にもありました。

結構ハエが多かったものですが、これほどの大量のハエを見たことはありませんでした。


でもそれも今は昔のこと。

現在は観光客も多く環境も整えられているようですから

衛生面も強化されてハエも昔のようにはいないと思います。

何しろヒンズー教の聖地ではないし、

仏教国からのツーリストも少な時時代のことですから

土産物屋などもありませんでした。

インド人観光客でさえもまばらです。

日本寺はあったし、時々日本からツアーが来ることもあったようですが、

そういう人は大概ガヤの街のホテルに宿泊して

日帰りでここを訪れるコースでした。

お釈迦様はこの菩提樹の下で悟りを開かれたと言われているその大きな木は、

ブッダ誕生以来四代目になる木だそうです。

その当時は

ああそうなんだ、と頭を納得させるだけの感慨だったと思います。

でも実際には、

その場のエネルギーに触れた体験が

魂のどこかに記憶されているはずです。

それが私や私の歩む人生にどう影響を与えているのかは全くわかりませんが、

何かしらの影響はあったはずだと考えます。


日本では先日処刑された

オーム真理教の麻原彰晃が無理やりブッダ悟りの場所に入り込み

ブッダガヤのことが少し話題になりました。

それ以来この菩提樹は鉄柵で囲われているそうです。

九十年代に入って

ブッダガヤを訪れる観光客はとても多くなったようです。

それに伴い村の雰囲気も人々も変わって行ったに違いありません。

旅を続けていると

そのあたりの人々の変遷を見ることもあって、

複雑な気持ちになります。

昔のままの心を持ち続けて居てくれることを祈ります。


三日ほど滞在して私は村の子供達とすっかり仲良しになりました。

日本から持ってきたミルクキャンでぃーもあげたしね。

村をさる時には

馬車に乗った私を子供達がどこまでもどこまでも追いかけてきました。

その時の心を打たれた記憶は今も忘れることができません。

本当にいつまでも必死になって馬車を追いかけて来るのです。

手を振りながら追いかけて来るのです。

こちらが帰り道を心配になるくらいいつまでも追って来たのでした。

美しい思い出の一つです。







幸いなことに私が行った時には

そのような観光地じみた雰囲気は一切感じませんでした。

ただそこにいる人たちに守られている静かで落ち着いた場所だったのです。

私はここに何日か過ごしました。

こんなに落ち着いた静かな場所をそれまでも今も

思い出せないくらいです。

雨季には大きな流れとなるニランジャナ川の川床がその時はすっかり干からびて

まるで砂漠のように目の前に広がっていました。

滞在中朝ごはんの後は水のない川べりで

瞑想したり夢想したりしながら時を過ごしました。

まあ大抵インド人の子供たちが付きまとってきて

日がなおしゃべりをしていた方が多かったかもしれません。

ある日小さな雨が降りました。

傘を差すまでもな小雨です。

あっという間に止んでしまいましたが、

乾期の間にもたまにはこういう時もあるようでした。

砂漠で優しい雨に打たれながら、「甘露」という言葉が胸に浮かびました。

それはまさにスイートな露のような雨だったのです。



何しろその川があまり幅広いので

目の前に広がる川床はまるで砂漠のように見えました。

夕日が沈む頃には地平線がピンクのに染まって天国にいるような美しさです。

見渡す限りのなだらかな起伏ある大地に人工建造物は一切ありませんでした。
























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インド一人旅の思い出・夜行寝台列車

2019-02-11 | お題
夜行寝台列車、

なんとなくロマンティックな響きです。

それまで私は一度も寝台列車に乗ったことがありませんでした。


まだ日本にもその頃は寝台列車が存在していました。

乗ったことはなくても

テレビや映画でその様子も見てそれなりに知っていました。


決してそれと同じものを期待していたわけではないけれど、

実際列車に乗り込んだ時にはやっぱりその違いに驚きました。

インドの列車は日本より幅広のレールを使っているので

必然車体も日本より大きいです。

車内は三人がけの座席が向かい合わせになっています。

乗車口側には通路と窓際に向かい合わせの一人席が並んでいました。


座席指定券を持っていたので自分の座席があるわけですが、

行ってみると座席は木の板。

クッションは何もない、ただ平たい木の板だけです。



幅は広く

スペース的にはゆったりしていましたね。


後でわかったことですが、三人がけなのは寝台を下ろすと三段のベッドになるからです。

ベッドは背もたれ部分に下ろしてあって

寝る時には板を上げて太い鉄の鎖で吊るせる構造になっていました。

寝台列車といっても板が三枚吊るされた棚のような寝床です。

その一番上が私の場所でした。

縄梯子のようなステップを上って自分の場所に陣取ると初めて辺りを見回す余裕ができました。

一番上にしてよかったです。

車内は人でいっぱいでした。

すでに夜中の時間なので暑さはそれほどでもありませんでした。

ただ人々のざわつく空気はなかなか治らず車内が静かになるまでにはしばらく時間が要りました。

とりあえず誰にも邪魔されない自分の場所を確保して、少し安心した私は

リュックサックを一番奥に押し込んで寝袋を広げました。

とりあえず寝袋に入り込んでしまえば、

形だけでもこの雑踏から逃れて自分の世界に入ることができるような気がしたのです。

手持ちのショルダーバッグと虎の子のトラベラーズチェックは抱いて寝ます。





インドの人は旅行好きというか、

色々と宗教的な巡礼とかあるのでしょう。

相当な数の鉄道利用者です。

派生して思い出したことですが、インドにはダラムサラーという宿が

国中にあるようです。

ダラムサラーとは聖地巡礼に行く人のために用意された

低賃金の宿のこと。

もちろんホテルのようなサービスは受けられませんが、

お金のない人でも旅ができる工夫を政府が面倒見てくれるのです。

こんな制度が日本にもあったらいいのにと思いますわ。

巡礼の旅に出る人の数はとても多いのでびっくりしますよ。






当時のインドの鉄道駅は日本のそれと違って

誰でも自由に出入りできました。

ですから誰が旅行者で誰が見送りの人なのか、わからないような大勢の人の固まりをいくつも見かけました。

中にはちょっと怖いような異質な風体の

オレンジ色をまとった人たちもいました。

それは社会から離れ宗教的に生きる道を選んだ人々。

サドゥです。

サドゥのことは日本語で「行者」とか「苦行僧」と訳されてます。

このサドゥは運賃を払うことなしに、いつでも自由に鉄道を使って良いことになっています。


インドの国はこの者たちの存在を尊敬の気持ちを持って認めているのですね。

その多くの身なりはオレンジ色の衣服を見にまとっていました。

けれども実際は黒い衣服、白い衣服などのグループがあったのですが、

オレンジ色はよく目立ちました。




食べ物も食べたいところに行けば

もらえるようになっています。


何人もサドゥの要求を断れない掟のようなものが存在しているのです。

それが国の決まりです。

これは全く異質の文化ですよね。

だからインドは面白い、と言えるでしょう。

異質なものを見たり聞いたり触れたりするのが旅の面白さなのです。


ヒンドゥ教の人たちにとってサドゥは絶対です。

なぜならサドゥは現生の楽しみを捨て出家した者たちだからなのです。

家族を持つ楽しみ、家を持つ楽しみ、ご馳走を食べる楽しみ、

金持ちになり、所有する楽しみ、そんな極上の楽しみを脇に捨て

その身一つで自分の信じる祈りの道苦行の道だけを歩む覚悟。

その覚悟に対する尊敬と感謝の気持ちを多くの人が持っています。

そういった宗教に対する土壌の違いは

とても興味深いものです。


話がサドゥのことに及んでしまいましたが、

そんなわけ鉄道を使うとサドゥの姿を見ることが多いのです。

初めは見てちょっとびっくりしましたよ、

何あの人たち、ってね。

そう思うと、日本にはあまり毛色の変わった人っていませんよね。

昔に比べれば多様になっているには違い無いと思います。

が、まだまだ大陸インドや欧米諸国に比べれば

同じような人ばかりの国に属するでしょう。

だいたい日本人の気質に異質を嫌う傾向があるのも影響しているのでしょう。


そんな風に今まで自国では見たこともない人々を観察しながら、

ついに私の待ちかねた寝台列車が十七番線ホームに現れました。

本来なら夕方出発して昏れなずむ大陸の景色がまだかろうじて見えるはずでした。

でも五時間ほど遅れています。

明日の朝には目的地に着く予定だったのに、

これではいつ着くのか見当もつきません。

とにかく流れに身を任せるしかない状況なのでした。



駅は大変混雑していました。

人と人の間を縫うように進んで目的の列車を見つけた時には

ホッとしました。

それから自分の乗る車両に貼り付けてある一枚の紙を見つけて

座席番号と予約番号の名前の一致を確認しました。

なんとも面倒な手続きです。

なんのために?こんなことするの?

その理不尽さに腹が立ちました。

この国では信じられないような理不尽がまk李通ることがままあって

そんな時には本当に腹が立ちました。

が、旅人としては従わざるを得ないのです。

張り出された名簿に名前がなければチケットを持っていても

乗車ができないと言うのです。


重いリュックを背負いながら自分の名前を確認し、

この儀礼を通過してさ、いよいよ待望の列車の旅が始まりました。


席の番号はすっかり頭に入っています。

その席は三人がけの板の一番奥。

鉄の柵で防御された小さな窓のそばでした。

聞けば鉄の柵で守らないと窓から席を取ろうとする人がいて

大騒動になるからだとか。

あと、夜中の強盗の侵入を防ぐため。

やっぱりインドは噂通り物騒な国なのです。




列車はあっという間に人でいっぱいになりました。

皆が私の方を見ています。

私が珍しい者だからでしょう。


実はここで驚きの告白をしますが、

当時私は人々がよく私のことをネパーリー、ネパーリーというの聞きました。

私は今の今まで、よくネパール人に間違われたよね、と記憶していたのです。

でもこうして思い出していると、

当時の私の髪型はショートカット。


そしてそのいでたちは赤い綿のパンツ姿であります。


もしかしたら、インドの人たちの目に私は

ネパール人の男として写っていたのでは無いでしょうか。

そんな気がします。

だってインドネパールで当時の女の人はパンツを履かないし、

リュックサックも背負わないし、髪も短くしていないのです。

私のスタイルはどう見ても男です。

胸も割と質素ですし。



今の今までそこに想いを馳せたことは一度としてありませんでした。

しかし考えてみれば見るほど

そうに違いなく、

私はずっとインドの人にネパール人の男だと思われていたようです。

だからセクハラもなく旅ができたのかもしれませんね。

そっか、なんだかちょっと微妙です。



勇敢にも私に声をかけてきた人は私が女だと気づいてさぞかしびっくりしたことでしょうね。


それにしても、もしもその当時にこのことに気がついておれば

旅もまた違ったものになったかもしれません。

怪しそうな人間にはわざと男らしく振る舞って見たり、

それはそれで楽しかったでしょうね。


全く新しい発見に旅の思い出を辿るのがもっと楽しくなってきました。





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おじさんと相思相愛

2019-02-11 | 日記
朝から曇っています。

今日も気温は低いです。

親、西の山が煙っているように見えますね。

雪が舞っているのかもしれません。

こっちに向かってくるのでしょうか。


仕事が一段落してからという者自堕落な生活を送っています。

なんて幸せなんでしょう。


昨日は仕事のお客様である八十九歳の男性と電話でおしゃべりしました。

私たち二人はとても気が合うのです。

親子ほどの年齢差があるのに

まるで同級生のように話が弾みます。


月に一度お互いの声が聞きたくなる仲なんです。


だからと言って私から電話をしたことは滅多にありません。


ということは彼のほうが私を恋しがっていると言えるかもしれませんね。うふ


八十五歳を過ぎた頃に免許証を返納したので

今は一人で運転して好きなところに行っていた時代とは違います。

出かけるのは週二回のケアセンターだけ。

たまにはタクシーでイオンに買い物に行くと行ってました。

それ以外は一人暮らしなので人恋しいのは当たり前ですよね。


その彼が昨日はしみじみと

「あんたのようにバリバリと話す女は滅多にないよ」と

そう褒めてくれました。

褒め言葉なんですよ、バリバリってのが。


だいたい女の人は電話口ではおしとやかに喋ろうとするのが常。

ところがあんたはもう素のままで言いたいことをバリバリという。

そこがいい、と

言ってくださいますのじゃよ。


すごいでしょ。

もしかしておじさんは私のファン?


それにしてもバリバリと話す、ってどんなんでしょ。


多分それもインド育ちが影響しているのではないかと、

最近インドの思い出話をしていると

そんな気がします。


何度目だったか忘れましたが、実はインドで父と呼ぶ人と

親子の縁を結んでいたことがありますの。

奇妙でしょ。

あー、でもでも、

その話はまた思い出話の中で書くと思いますので今はサイドに置きましょう。


そのおじさんが言いました。

あんたは旦那を愛しているんだね、と。


ですから私は答えます。

えーもちろん愛してますよ。

愛していなければ一緒に入られませんよ、とね。



するとおじさんは

いいね、と一言発したまま暫しの間を置いたあと、


それがいいんだよね。

私の周りの女の人は旦那の悪口を言う人しかいないよ。

旦那のことをよく言う人に会ったことがない。

寂しいことだな、

俺は女房を早くに亡くしているから

今、もしそばにいてくれるなら仲良く暮らしたいなって思うんだ。

せっかく一緒に暮らしているのに悪口の言い合いはもったいないぞ。


そうしみじみ語るのです。


そして、ちょっとの間でいい、もう一度女房に会いたいなと本音で囁きました。

おじさん今日はちょっと寂しいのね。

だから電話してきたんです。


普段おじさんはとても元気な人で

私もその変わらぬ声を聞くのが楽しみで

内心おじさんからのコールを心待ちにしています。

相思相愛ですよ、へへ


おじさんは

私が家人を愛しているところが好きなんですね。

何はともあれ

おじさんと出会えたことは私の人生の宝物ですよ。

自分自身を飾らずに素のままでいたことで

それを認めてそれを好きと言ってくれる人に出会えたことは

本当に幸せなことです。


私たち夫婦はおじさんと出会ってどれだけ助けられたでしょう。

ありがたい存在のおじさんには

これからも元気で長生きをしてほしいです。

おじさんは百まで生きる気満々。


そんなおじさんの英気を感じるとこちらも元気になりますの。









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インド一人旅の思い出・ルンギーという名の腰巻

2019-02-10 | お題

カルカッタで見かけた男性はオフィスで働く人や制服は別ですが、

ほとんど皆腰巻一丁で暮らしています。

腰巻が普通です。

ルンギーって言ってました。

一枚の布です。

それを半分に折って昼は膝上丈に、夜になると足首までのロング腰巻に

モデルチェンジします。


サイクルリキシャのドライバーも人力車の車夫も皆このスタイルです。

先に書いた駅の赤帽、

あの男たちももちろん赤いルンギーを腰に巻いていました。

暑いからそれで十分なんでしょうね。

その下に下着は履いていないと思いますよ。


初めて見たときも

スカートというイメージにはつながりませんでした。

腰巻そのものです。


仕事の時は半分丈で

あらたまった時にはロング丈、のような約束もあるようです。



インドで私が最初に買い物したのもこのルンギーでした。

これは大変便利な布なんです。

この布一枚あればそれはスカート替わりにもなり、ワンピースにもなり

上掛けにもタオル替わりにもショールにも風呂敷にもなるのです。

マルチに活躍してくれる一枚布の使い方を

インドで学びました。

それ以来出かける時には必ずというように一枚の布を持参するようになりました。

それは今でも続いています。



そういえばキャメルに乗って砂漠を歩いた時には

ターバンがわりに頭に巻いて暑さをしのいだものでした。



初めての寝台列車に乗り込もうというその時にも、



カルカッタのニューマーケットで買ったルンギーが軽く巻きつけられていました。



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