インドの鉄道で忘れられないのことの一つは物乞いです。
インドには多くの物乞いがいました。
駅だけでなく街の中にも寺院の周りにも。。。
人が集まりそうなところにはどこでもです。
私は戦後八年も経って生まれているのでそれまで物乞いの存在を
話の中で知るだけでした。
そんな私が物乞いから手を差し出された時にはどうにも切ない気持ちになりました。
考えてみればそれも喜捨の社会だからなのでした。
だってそうでしょ。
インドって国は乞えばもらえる国なんですもの。
だから人々は誰でも
自分より持ってそうな人がいれば乞うのです。
ところが我が国もしくは我が周辺では
乞うことはある種の恥というのが一般的だったような気がします。
人に頼らず自分でもやることが美徳。
乞食になりさがるなんて以ての外。とプライドをむき出しにするのがよろしいようで
そうでないと意気地なしなどと呼べれてしまうのです。
乞食は成り下がり者で、決してなるべき者ではない
というのが日本での待遇でしょう。
なのにインドにはどこにでも物乞いがいたのです。
駅にてはホームに滑り込む列車に子供の物乞いが走りよります。
車窓にいると、
目の前に薄汚れた髪の毛、着の身着のままの破れたドレスの女の子が立ち止まります。
手には裸の幼子を抱いていて二人ともやせ細っています。
すぼめた指先を口元につけるジェスチャーをして
何か食べ物をくれとねだります。
見ると本当に美しい顔立ちをした美少女です。
インドの人は彫りの深い美しい顔立ちをしていますよね。
彫像のような顔の人が多いのです。
物乞いの中にも、この子を日本に連れて帰ったら
どんなに美しいアイドルになることだろう、と
そんな馬鹿げたことを考えてしまうような美形が在りました。
でもたいていの場合その目は悲しそうに何か訴えています。
そのことに胸が痛みました。
私は決して豊かな身分ではありません。
金持ちでもありません。
何らかの労働をして、給料を貯めて
興味のあるこの国へやってきた一介の旅人です。
それが貧しい人に乞われる立場となっているのです。
私は持っていたバナナを彼女に渡します。
すると彼女はこれはベービーのため、私のためにもう一つと乞うのです。
二つのバナナを持って去っていった彼女はきっとまた別の窓に立つのでしょう。
私はこうしてその美しい物乞いの少女のおかげで、
自分にできる限りのバクシーシ『喜捨』を経験させてもらうことになりました。
喜捨という教えはヒンズー教の中にあるようです。
喜捨とは持っているものが持たないものに喜んで分け与えるという意味だと聞いたことがあります。
人々は徳を積むことで良き来世を迎えたいと願っています。
徳を積みたい人にとって
徳を積ませてくれる相手はとてもありがたい存在なのであります。
この教えはとても合理的じゃないでしょうか。
数学好きで頭脳明晰な人の多いインド人が考えそうな発想ですよね。
徳を積むには積ませてくれる相手が必要だ、
乞うものがあればこそ差し出すという徳が積めるのものなのです。
人々がそんな教えの中に生きていることが素晴らしいものに思えます。
それを思うと、乞食を乞食と蔑み、馬鹿にするだけの世の中は
ギスギスな嫌な世の中なんじゃないでしょうか。
それは金持ちも乞食も同じ輪の上の存在ってことなんです。
輪廻のその輪に誰もが絡まって生きているってことでしょう。
金持ちが偉い、乞食は低いってことではないのです。
今は金持ちでも来世はわかりません。
だから人間としてよりよく生きようと心がけるのです。
徳を積むといいことがあるとご利益を約束すると、
世の中が一応平和の方向に向かうのかもしれません。
それが行き過ぎてしまわなければね。
物乞いはインドの悲惨な面であり負の遺産的になっているのかと思います。
それでも私は記憶に残る印象的な美しい物乞いの少女から
確かに何かを受け取りました。
ものを施すことの喜びと悲しみも経験できました。
施しの習慣を悪事に利用する動きもあり、
一概には言えないことですのできっと今も
物乞いの問題は続いているのではないでしょうか。
物乞い=貧困であることに間違いはないのです。