gooニュース:YOMIURI ONLINE-園児ら21人死傷、井沢容疑者を業過致死傷罪で起訴-
埼玉県川口市の市道で9月、散歩中の園児の列にワゴン車が突っ込み、園児ら21人が死傷した事故で、さいたま地検は16日、同県栗橋町南栗橋、運送業手伝い井沢英行容疑者(38)を業務上過失致死傷罪でさいたま地裁に起訴した。
起訴状によると、井沢容疑者は9月25日午前9時55分ごろ、川口市戸塚東の市道で、左手で助手席にあった携帯型カセットプレーヤーを操作し、右手だけでハンドルを握り、脇見運転のまま時速50~55キロで走行。前方左側を歩いていた保育園児らの列に突っ込み、園児4人を死亡させ、17人に重軽傷を負わせた。
遺族は、業務上過失致死傷罪よりも刑が重い危険運転致死傷罪での立件を求めていたが、さいたま地検の粂原研二・次席検事は「酒気帯び運転や速度超過などの事実は認定できず、危険運転致死傷罪での立件は困難」としている。
(引用ここまで)
悲惨な事故であり、被害者・遺族の悲嘆は察するに余りあります。
しかし「刑を重くしてほしい」という理由で「危険運転致死傷罪」での立件を求めるというのはどうか?と思います。
上記記事その他の報道内容から、事故は脇見運転が原因とのこと。
いずれにせよ、「過失」になります。
どうも、最近の日本は、刑罰を「結果主義」で見る風潮が蔓延っているような気がします。
日本の刑法は動機重視です。たとえば5人死なせた(殺した)として、「誤って死なせてしまった」のか「殺そうとしていた」のかで刑罰の重さは違います。大抵のヒトは、このことが不自然だとは思わないでしょう。
今回の件も、その悲惨さ、家族の悲しみは十分理解できます。しかし、こう考える余地もありはしないか。
交通事故による業務上過失致死傷罪は、運転をするヒトならだれでも加害者になる可能性があります。そういうことも前提で刑の重さが決められている筈です。
自分が同じことをして罪に問われた場合、その量刑は妥当だと思うか?という観点が抜けているような気がします。
だから、単純に重罰化を望むような最近の風潮には、違和感を覚えます。
重罰は、「罪を犯したあいつ」にだけ課せられるのではありません。そう言う本人にもそれが課される可能性は、常にあるのです。社会とはそういうものです。
少し、自分と他者(特に悪いことをしたヒト)との間が隔絶していると思いすぎではないか?と感じています。
最近だと、飲酒運転が大きな社会問題としてクローズアップされました。
私は酒を全く飲まない(かなり弱い)し、飲んで具合が悪くなることはあっても、楽しくなったことはありません。
また、率直に言って「酔ったヒト」というのは大抵、迷惑なものだと感じます。
(ほろ酔い程度で楽しく会話できるなら全然OKですし、親しいヒトなら管を巻かれてもまあ大丈夫ですが、それも程度問題。)
昨今は付き合いの場でも無理に飲酒を勧められる場面はありませんから、まあ、私が飲酒運転をすることはない。
そんな私からすれば、飲酒自体を禁じてもらったって一向に構いません。
でも、いくら飲酒運転が社会問題化しているとはいえ、「禁酒法」を望むヒトはそう多くないでしょう。
それは「禁酒」となれば即わが身に降りかかることが想像できるからではないか?
同じことは上記の事故についても言えるはずです。
逆にいうと、クルマに起因するヒトの死について、一般的に厳罰化の意向が強まるのなら、まあ分かります。
ただ、そのときは、運転免許の敷居をもっと高くする必要があるということになります。(実際やるとなれば、自動車業界の猛反発があり事実上不可能と思われますが)
そういったコトを考えないか、あるいは表明されないというのは、「深謀遠慮が足りない」ように、私には見えます。
(追記)
コメント&トラックバックを頂いた「裁判所書記官だってしゃべりたい」の書記官様が、この件に関する正確かつ分かりやすい記事を書かれています。是非、トラックバック先の記事を御一読下さい。
埼玉県川口市の市道で9月、散歩中の園児の列にワゴン車が突っ込み、園児ら21人が死傷した事故で、さいたま地検は16日、同県栗橋町南栗橋、運送業手伝い井沢英行容疑者(38)を業務上過失致死傷罪でさいたま地裁に起訴した。
起訴状によると、井沢容疑者は9月25日午前9時55分ごろ、川口市戸塚東の市道で、左手で助手席にあった携帯型カセットプレーヤーを操作し、右手だけでハンドルを握り、脇見運転のまま時速50~55キロで走行。前方左側を歩いていた保育園児らの列に突っ込み、園児4人を死亡させ、17人に重軽傷を負わせた。
遺族は、業務上過失致死傷罪よりも刑が重い危険運転致死傷罪での立件を求めていたが、さいたま地検の粂原研二・次席検事は「酒気帯び運転や速度超過などの事実は認定できず、危険運転致死傷罪での立件は困難」としている。
(引用ここまで)
悲惨な事故であり、被害者・遺族の悲嘆は察するに余りあります。
しかし「刑を重くしてほしい」という理由で「危険運転致死傷罪」での立件を求めるというのはどうか?と思います。
上記記事その他の報道内容から、事故は脇見運転が原因とのこと。
いずれにせよ、「過失」になります。
どうも、最近の日本は、刑罰を「結果主義」で見る風潮が蔓延っているような気がします。
日本の刑法は動機重視です。たとえば5人死なせた(殺した)として、「誤って死なせてしまった」のか「殺そうとしていた」のかで刑罰の重さは違います。大抵のヒトは、このことが不自然だとは思わないでしょう。
今回の件も、その悲惨さ、家族の悲しみは十分理解できます。しかし、こう考える余地もありはしないか。
交通事故による業務上過失致死傷罪は、運転をするヒトならだれでも加害者になる可能性があります。そういうことも前提で刑の重さが決められている筈です。
自分が同じことをして罪に問われた場合、その量刑は妥当だと思うか?という観点が抜けているような気がします。
だから、単純に重罰化を望むような最近の風潮には、違和感を覚えます。
重罰は、「罪を犯したあいつ」にだけ課せられるのではありません。そう言う本人にもそれが課される可能性は、常にあるのです。社会とはそういうものです。
少し、自分と他者(特に悪いことをしたヒト)との間が隔絶していると思いすぎではないか?と感じています。
最近だと、飲酒運転が大きな社会問題としてクローズアップされました。
私は酒を全く飲まない(かなり弱い)し、飲んで具合が悪くなることはあっても、楽しくなったことはありません。
また、率直に言って「酔ったヒト」というのは大抵、迷惑なものだと感じます。
(ほろ酔い程度で楽しく会話できるなら全然OKですし、親しいヒトなら管を巻かれてもまあ大丈夫ですが、それも程度問題。)
昨今は付き合いの場でも無理に飲酒を勧められる場面はありませんから、まあ、私が飲酒運転をすることはない。
そんな私からすれば、飲酒自体を禁じてもらったって一向に構いません。
でも、いくら飲酒運転が社会問題化しているとはいえ、「禁酒法」を望むヒトはそう多くないでしょう。
それは「禁酒」となれば即わが身に降りかかることが想像できるからではないか?
同じことは上記の事故についても言えるはずです。
逆にいうと、クルマに起因するヒトの死について、一般的に厳罰化の意向が強まるのなら、まあ分かります。
ただ、そのときは、運転免許の敷居をもっと高くする必要があるということになります。(実際やるとなれば、自動車業界の猛反発があり事実上不可能と思われますが)
そういったコトを考えないか、あるいは表明されないというのは、「深謀遠慮が足りない」ように、私には見えます。
(追記)
コメント&トラックバックを頂いた「裁判所書記官だってしゃべりたい」の書記官様が、この件に関する正確かつ分かりやすい記事を書かれています。是非、トラックバック先の記事を御一読下さい。